三分で詳しく学ぶ ラッキー・ルチアーノpart9
三分で詳しく学ぶ ラッキー・ルチアーノpart9
目次
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これまでのルチアーノはこちらから
シラグーサの圧力
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1955年、シラグーサが麻薬取締局のヨーロッパ局長に就任。
最初の仕事としてルチアーノを野放しにしてはならないと会見を行った。
イタリア政府は再びルチアーノを“危険人物”とみなし、夜間外出禁止、競馬場の出入り禁止、旅行禁止などの措置をとった。
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1956年には国外追放仲間が増えた。
ジョー・アドニスである。
この日の為に貯金していたアドニスは、マスコミの取材に対して「ミラノに定住して大人しくする」と答えた。
また、アドニスはマスコミにルチアーノとは縁が切れたので会うことはないと答えていた。
しかし、実際には違った。
ミラノ定住からほどなくしてアドニスとルチアーノは密かに落ち合いビジネスについて話し合った。
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奴とは以前のような関係ではなかった。必要な事だけを話す冷めた間柄だった
このような密会は定期的に行われたが、誰にも知られることはなかった。
1957年、ルチアーノはアメリカ大統領宛に入国許可嘆願書を提出。
この嘆願書はあっさりと拒絶され、ルチアーノはアメリカへの帰国を遂に諦めた。
殺しの依頼
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遂にマフィア界の制圧に乗り出したヴィト・ジェノベーゼはラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ二人の暗殺を依頼した。
コステロ暗殺を引き受けたのは若きボクサーくずれのマフィア ヴィンセント・ジガンテ。
1975年5月2日の夜遅く、自宅前でタクシーを降りたコステロはジガンテに撃たれた。
銃を撃つ直前にジガンテは「くらえフランク」と叫んだため、反応したコステロは僅かに身体を反らし致命傷を免れた。
弾丸はコステロのコメカミ辺りの頭皮と頭蓋骨の間をすり抜けていたのだが、血塗れの姿を見たジガンテは任務をやり遂げたとおもい逃走。
この暗殺未遂事件により、ジェノベーゼ、コステロ、そしてルチアーノは戦争に備え警戒体制を強めた。
いよいよマフィア界では全面戦争が始まるかと思われたのだが。。
引退
方々の予想に反してコステロは引退を申し出た。
本来マフィアに引退はない。
それは誰もが知ってはいたものの、今回は全面戦争を避けるべくコミッションで“引退を認めるか否か”の多数決が行われた。
会議は全会一致で引退を承認。
こうしてヴィト・ジェノベーゼがマフィア界のトップに躍り出た。
ガンビーノの駆け引き
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ルチアーノもコステロ暗殺未遂に大きな衝撃を受けていた。
マフィア界で表だった反乱が起こるのは1931年のサルヴァトーレ・マランツァーノ暗殺以来の出来事だったからである。
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出来るならばアメリカに行きジェノベーゼを殺してやりたかった。
だが警察もイジェアも事件以来、私から目を話さなかった。
パスポートもないし、それは叶わぬ願いだった。
あの頃、私は常にボディガードを連れ、外出は控えるようにしていた
そんなある日、カルロ・ガンビーノの弟 ポールがルチアーノを訪ねてきた。
ポールはアナスタシアの腹心ガンビーノの遣いとして伝言を届けに来たのだった。
ポールはルチアーノに「アナスタシアがマズいことになりそうだ」と語った。
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私はポールの兄がアナスタシアの腹心なので、兄の利益を考えているのだろうと思った。
私はアナスタシア宛に“コミッションを集めジェノベーゼを消す採決を取れ”との伝言を託した
しかしこの伝言がアナスタシアに届くことはなかった。
もしくはアナスタシアがルチアーノの助言を聞かなかった。
とにかく事態は悪化し続け、ルチアーノにも止めることは出来なかったのだ。
この年の6月、ルチアーノにロンギー・ツィルマンから知らせが届いた。
どうやらジェノベーゼのルチアーノ暗殺計画がいよいよ実行に移されるらしい。
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ジェノベーゼは必ず敵の裏をかく。
奴は私の車好きを知って、そこを突くだろうと確信していた
それからというものルチアーノは車に乗る前には必ず爆弾が仕掛けられていないか点検するようになっていた。
そして6月末のこの日もルチアーノはガレージで車を点検していた。
点検中、突然の物音に驚いたルチアーノが振り替えると鉄パイプを持った二人の男が立っていた。
一人がルチアーノ目掛けて鉄パイプを振りかぶったが、咄嗟に身を屈めたお陰で狙いは外れた。
背中を殴られたルチアーノは後退りしながら、さらなる攻撃を避ける。
と同時に想いを巡らせていた。
なぜ張り付いていた警官が今日はいないのかと。
そこへルチアーノのボディーガードが駆けつけた。
ボディーガードとルチアーノは男達と揉み合いなんとか拘束することに成功。
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奴らはどんなに殴られても口を割らなかった。
私は奴らを殺そうと思ったが、考えを改めて伝言を託して解放した
ジェノベーゼは確かにルチアーノからの伝言を受け取った。
“俺と戦争する気なら核ミサイルをぶちこんでやるぞ。
俺がいる限り絶対にお前はボスにはなれない”
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イジェアには暗殺未遂のことは伝えなかった。
私は彼女にこういうことと関わりを持たせたくなかったんだ。
だがイジェアはしだいに弱っていき顔色も悪くなっていった。
私は何も気づいてやれなかった
ニューヨークからの金は相変わらず届いていた。
ラッキー・ルチアーノは使いのパット・エボリとイジェアを連れてしばらく休暇に出掛けることに決めた。
コミッション召集
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1957年10月25日、アルバート・アナスタシアは散髪のために床屋を訪れた。
そこでアナスタシアは10発もの弾丸を受け死亡した。
犯人はカルロ・ガンビーノの手下、クレイジー・ジョー。
ガンビーノはボスの座を得るためにアナスタシアをジェノベーゼに撃ったのだった。
さらにガンビーノは次の展開を読み、今度はルチアーノに改めて忠誠を誓った。
アナスタシアが消えたことでジェノベーゼは“ルチアーノの要望で全国会議を行う”との通達を出した。
これを聞いたマフィア達から次々にルチアーノへと問い合わせがきたが、その度にルチアーノは“全く知らない”と答えた。
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奴はマランツァーノのように皆の前でボスの中のボスになると宣言しようとしていたんだ
アパラチン会議
1957年11月24日、アメリカ全土のマフィアが会議のために集まった。
ジェノベーゼが召集した通称“アパラチン会議”である。
この会議の裏では復讐に燃える反ジェノベーゼ派が暗躍していた。。
颯爽のリムジンで乗り付けたボス達は警察に包囲され次々と逮捕されてしまう。
一番ダメージを受けたのは摘発により“無能”のレッテルを張られたジェノベーゼであった。
会議が摘発されると知らなかったルチアーノもこの大事件に肝を冷やした。
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遂にマフィアが世間に晒されてしまったのだ。
私は怒りに震え、それから絶望した
引導
1958年、カルロ・ガンビーノがルチアーノを訪ねてやってきた。
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ガンビーノはランスキー、コステロなどがジェノベーゼを監獄に送ることにしたと言った
ルチアーノもこの作戦には賛成した。
ほどなくしてジェノベーゼは麻薬の売人の密告により逮捕された50年の服役を言い渡された。
結局、ジェノベーゼがシャバに出ることは二度となかった。
ただし反撃はあった。
ジェノベーゼが有罪判決を受けた直後、ロンギー・ツヴィルマンが首を吊っているのが発見されたのだ。
また、密告した売人もバーでの喧嘩で刺殺されている。
しこり
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あまりに体調の悪いイジェアを心配したルチアーノは彼女に精密検査を受けさせた。
その結果、左の乳房にしこりが見つかる。
医者は手術で取り除く事を勧めたが、自分の身体が自慢のイジェアは頑なに首を縦に降らない。
イジェアは乳房がなくなることによって、ルチアーノが離れてしまうことを何よりも恐れていたのだ。
それから一年ほど経ったある日、イジェアはひどい痛みを訴え病院に運ばれた。
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私がつくと医者はしこりがガンであると伝えた。
ただし、取り除けば何も心配はないとの事だった。
私は医者になんとしても助けてやってくれと頼み込んだ
翌日、イジェアの手術が行われた。
ルチアーノはその間、何時間もタバコを吸いながら一人で待ち続けた。
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私は彼女が助かるならなんでもすると神に誓った。
そして彼女の手術は無事成功した
その晩、ルチアーノは麻酔で眠り続けるイジェアをただただ見守っていた。
看護婦はルチアーノを心配したが、その場を離れる気にはなれなかったからだ。
やがて目を覚ましたイジェアは左側の乳房が無いことに気がつき泣きじゃくった。
ルチアーノはもう心配ないとイジェアを慰めたが彼女は首を横に振るのみだった。
旅行解禁
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1958年2月、ルチアーノの元に著名な弁護士ジョヴァンニ・パッセジオから連絡が届いた。
彼はルチアーノが人権を侵害されていることに憤っており、力になろうと申し出てくれた。
ルチアーノはもはや自身の処遇について諦めていたが、ジョヴァンニは「まだ闘いは始まったばかりじゃないか」と言ってくれた。
3月20日、再びルチアーノの処遇を巡る裁判が行われ、様々な調査が行われることに。
アルバート・アナスタシア暗殺とルチアーノの関連は?
ルチアーノは今もマフィアか?
驚くべきことにイタリア政府は調査の結果“ルチアーノは既に足を洗い、真面目な生活を送っている”と結論を出す。
こうしてルチアーノは誰にも干渉されることのない、とはいえアメリカには戻れなかったが、自由な生活を手に入れた。
再発
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依然、元気のないイジェアを心配したルチアーノは気分転換を兼ねてカリブ島近くの別荘に出掛けた。
この旅行にはバンビと言う名の愛犬も動向した。
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イジェアはディズニー映画のバンビが好きで、犬の名前はそこからとっていた
ある朝、ルチアーノが目を覚ますとイジェアがバンビを抱きながら泣いていた。
どうしたのかと訪ねるルチアーノにイジェアは「右胸にいくつかしこりがあるの」と伝えた。
衝撃を受けたルチアーノは慌ててイジェアを病院に運んだ。
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私はなんとか彼女を助けてくれと医者に泣きついたが、もはやガンは手の打ちようもないほど転移していた
持って数ヶ月、もしくは数週間というのが医者の見立てだった。
ルチアーノはそれから毎日、神に祈りを捧げた。
ある朝、体調が少し良かったイジェアはルチアーノに「引きこもっていないで少しでかけたら?」と言った。
ルチアーノは久しぶりに食事に出掛けたが、いてもたってもいられずすぐに帰宅した。
ルチアーノ宅には毎日、神父やギャング、警察関係者が訪れイジェアの為に祈った。
イジェアは人当たりが良く、どんな人にも好かれていたのだ。
しかしイジェアは弱っていくばかりであった。
私が死んだら
イジェアはよく「私が死んだら、あなたはどうするのかな」と言った。
それを聞くたびにルチアーノは胸が痛んだ。
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私はイジェアに死んだら許さんぞ、と命令したが彼女は少し笑うのみだっだ
イジェアはルチアーノに「自分を家族の墓にいれ、あなたにも近くに住んでほしい」と懇願した。
ルチアーノは必ずそうすると約束した。
1958年9月、イジェアは昏睡状態に陥った。
数日間、ルチアーノはベッドのそばを離れず食事も取らなかった。
これによりルチアーノもみるみるげっそりとしていった。
数日後の朝、イジェアは僅かに意識を取り戻し、ルチアーノを見つめると愛してると言ってそのまま息を引き取った。
雨の中、イジェアの葬儀は盛大に行われた。
棺は八頭もの馬が引く馬車に積まれ、葬列は果てしなく続いた。
ルチアーノはイジェアに結婚指輪をはめ、棺を薔薇で埋め尽くした。
薔薇はイジェアの一番好きな花だったからだ。
葬儀の終わった後、ルチアーノは一人墓地に立ち尽くしていた。
その後の記憶はない。
家に戻るとバンビがイジェアを探して歩き回っていた。
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友人達は塞ぎ混んでいる私を気遣い連れ出そうとしたが、私は何ヵ月も一人で喪に服した。
私は心にぽっかりと穴が空き、それを埋められずにいた
加熱
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1959年、アメリカではヴィト・ジェノベーゼが去った後も混乱が続いていた。
各ファミリーは次なる時代の先頭を走ろうとつばぜり合いを繰り広げていたのだ。
ランスキーが入れ込んでいるキューバでも混乱が起こった。
反政府軍のフィデル・カストロが政権を妥当し、マフィア達を追放したのだ。
ランスキーは追放後も、バチスタ元大統領と連絡を密に行い再起を計っていた。
この動きは結果としてランスキーの運営するカジノを世界各地に作ることとなる。
さらにバグジー・シーゲルの残したラスベガスがついに花開き、世界的な観光地になりつつあった。
これもさらなるトラブルの種になりそうだった。
ラスベガスの利権は誰にとっても魅力的だったからである。
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次回はついに完結。
対立するルチアーノとランスキー。
ルチアーノは麻薬組織を立ち上げ、再び返り咲こうとするのだが。。