三分で学ぶ ステファノ・マガディーノ
三分で学ぶ ステファノ・マガディーノ
今回は“アンダーテイカー”の異名を持つバッファローファミリーのボス ステファノ・マガディーノを紹介していきます。
ステファノ・マガディーノの生い立ち
1891年10月10日、マガディーノはシチリア島のカステランマーレデルゴルフォで生まれた。
一家はマフィアの名門であった。
1909年、マガディーノ一家はニューヨーク移住し新天地開拓を始める。
共に移住したマガディーノのいとこにはジョゼフ・ボナンノがいた。
ボナンノの一家も同じくマフィアの名門で両家は同盟関係にあった。
ただしボナンノは一度渡米するも3歳の時にイタリアへ帰国しており、しばらく顔を合わせることはなかった。
ちなみにマガディーノは21才の時に同い年のカルメラ・カロッドの結婚。子宝にも恵まれている。
マガディーノの台頭
マフィア一族の出身だったマガディーノは当然のごとく恐喝などで生計を立てるようになった。
1921年、マガディーノの兄弟を殺害したギャングの敵討ちを行い、警察に追われる身となる。
マガディーノはバッファローに逃れ、バッファローのマフィアのボス ジョセフ・ディカルロな世話になることに。
翌年、ディカロが死去すると家柄と実力を認められていたマガディーノがバッファローファミリーのボスに選出された。
ボナンノの帰国
1924年、ジョゼフ・ボナンノがアメリカに戻った。
手引きを行ったのはマガディーノの息子ピーター。
二人は漁船に隠れてアメリカへと渡った。
アメリカに到着したボナンノは瞬く間に頭角を現してゆく。。
ボナンノは当時全米最強の一角だったマランツァーノファミリーを率いるサルヴァトーレ・マランツァーノに気に入られNo.2の座を与えられた。
身内ではあるものの、先を越されたことにマガディーノは嫉妬を隠せなかった。
ファミリービジネス
禁酒法時代が始まるとマガディーノはワインやスピリッツの密輸をして財をなした。
やがてカステランマレーゼ戦争が始まるとマガディーノは同郷のマランツァーノを支持。
戦争終了後、ラッキー・ルチアーノによるマフィア界の再編が行われ、マガディーノは改めて正式にバッファローのボスと認められた。
禁酒法撤廃後のマガディーノは労働組合の恐喝やゆすり、ギャンブルをシノギにしていた。
バッファローファミリーは儲けた金をリネンサービスやタクシー事業などの合法的なビジネスに積極的に再投資した。
マガディーノは表向きの職業を葬儀屋としており、この事から“アンダーテイカー”とあだ名されるようになった。
波乱の時代
1957年にはアパラチン会議に出席。
警察の手入れがあった際にマガディーノは隠し部屋に隠れて逮捕を逃れている。
1958年、マガディーノ宅の台所の窓から手榴弾が投げ込まれる事件が起こったが爆弾は不発であった。
この爆弾には一人だけ隠し部屋に逃れたことに対する避難の意が込められていたと言われている。
1960年代に入るとファミリーの主なシノギは麻薬へと移ってゆく。
マガディーノは決して目立たぬように、しかし着実にシマを広げてゆきカナダでもビジネスを行うようになっていた。
1961年7月、カナダ警察は麻薬を販売していたマガディーノ傘下の麻薬組織を摘発。
捕まった組織のリーダーは「保釈金を用意しないとあんたのことをバラす」とマガディーノを脅迫した。
だがマガディーノは保釈金を払うよりも彼を火炙りにし、永久に黙らせる事を選んだ。
ちなみにマガディーノの麻薬ビジネスについてはドラマ「ボードウォークエンパイア」で少しだけ言及されています。
バナナ戦争
いとこで五大ファミリーのひとつボナンノファミリーを率いていたジョゼフ・ボナンノはガンビーノファミリーのボス カルロ・ガンビーノと派閥争いを繰り広げていた。
次第に劣性に立たされたボナンノはプロファチファミリーと協力し他のファミリーのボスを皆殺しにしようとする。
殺しのリストにあがったのはカルロ・ガンビーノ、トーマス・ルッケーゼステファノ・マガディーノなど。
この企みを知ったコミッション(マフィアの全国会議)はボナンノを追放。
これに納得しないボナンノは戦争を始める。
これが俗に言う“バナナ戦争”であった。
マガディーノはガンビーノの命令に従いボナンノへの攻撃を始める。
その少し前、マガディーノは弟と息子に命令しボナンノを拉致させた。
マガディーノはボナンノを農場の小屋に監禁し、サシで話し合いを行った。
最終的にボナンノはマガディーノに説得され、引退する事を約束し解放された。
しかし解放されると同時にボナンノは雲隠れしてしまう。
その後、マガディーノとボナンノは二度と会うことはなかった。
ボナンノは息子のビルと共に戦争を始めたが次第に追い込まれ、最終的に引退を決意した。
マガディーノの最期
1968年、警察はマガディーノの葬儀場の屋根裏から50万ドルを押収した。
さらに葬儀社にはFBIが盗聴機を仕掛けていた事が明らかとなった。
マガディーノは部下達に“金がないから”と言い訳し上納金を引き上げていたので、50万ドルが発見された事で顔に泥を塗られることとなった。
マガディーノに失望した部下達は次々と離反しバッファローファミリーは衰退していった。
最期は1974年7月19日、心臓発作で死亡した。