ロバートケネディとホッファpart4

ロバートケネディとホッファpart4

ケネディ大統領、エドガー・フーヴァー、ロバートケネディ

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ロバートケネディ司法長官

1960年11月、ジョン・F・ケネディは自宅に有力な政治家を集め作戦会議を開いた。

この会議でロバートと父のジョーは激しく議論したと言われているが、結局の所ロバートが考えを変えることはなかった。

ロバートケネディ司法長官

司法長官となったロバートは、連邦レベルでは考えられなかったような権限を手に入れた。

ロバートは少年の非行、企業による価格操作、アメリカ社会における全体的なモラルの低下、法執行機関に対する国民の信頼の低下について懸念を表明。

そして解決策として組織犯罪をこれまで以上に厳しく取り締まると宣言した。

1961年2月ロバートは会見を開き、組織犯罪に対する8つの法案と銃器の州間輸送を禁止する法案を可決するよう強く求めた。

キャンペーン開​​始

同年4月、ケネディの対マフィア作戦の一貫として国税庁はマフィアの税務記録を調べるチームを結成。

5月、ロバートは50人の司法省の弁護士によるマフィア摘発チームの結成を発表、ジアンカーナ等有力マフィアを摘発すると宣言した。

早くも6月には違法賭場の容疑で13人を起訴。

続いて12月、国税庁は22の州で同時取締りを行い、ギャンブル税を支払っていない疑いのある100の賭博場で128人を逮捕した。

加えて同年、ロバートが求めた法案が可された。

これらは主にギャンブル用品の州間移送を禁止するものやマフィアへの刑罰を厳しくするもので、ロバートはこれらの法案を武器に次々とマフィアを起訴していった。

討ち取られたマフィア達

1961年、ロバートの働きにより起訴されたマフィアの中にはロサンゼルスのボス ミッキー・コーエンが含まれていた。

さらにロバートはあの「フレンチコネクション」に関する裁判でも有罪を勝ち取った。

これらの功績が評価され、翌年の司法省の予算は前年から二倍の110万ドルに。

しかしロバートは浮かれはしなかった。

「まだ祝うときではありません。
5年後にもこの状況が変わらないなら、
その時初めて我々の試みは成功したと言えるだろう」

翌年1963年、ロバートの圧力により動き出したFBIは850件以上のマフィア絡みの事件を捜査し始めた。

バラキ公聴会

1963年はマフィアにとっても変化の年だった。

初めてマフィアの正規メンバーから裏切り者が出たのだ。

名はジョセフ・バラキ
バラキはマクラレンが委員長を勤める小委員会で洗いざらいマフィアの秘密を明かした。

バラキの証言はアメリカマフィアの歴史をひもとくもので、カステランマレーゼ戦争ラッキー・ルチアーノの台頭マフィアとラスベガスの関連などについて証言したバラキは一躍、有名人になる。

そのバラキにロバートも目を付けていた。

ジョセフバラキ

ロバート・ケネディはバラキをだしにして新たな法案を可決させようと思案し始めた。

しかしその矢先、ケネディ大統領が暗殺されてしまう。

ロバートは兄の死から数週間後、再び組織犯罪撲滅に向けて活動を再開。

これはロバートが司法長官の座を降ろされるまで続いた。

ホッファの敗北

ホッファ

ジョン・F・ケネディ暗殺のニュースを聞いた時、ホファはマイアミのレストランにいた。

ホッファは歓喜のあまり椅子の上に立ち奇声をあげたという。

すぐにホファは弁護士に電話してこう話した。
「良い知らせを聞いたか?
やったぞ。
もうロバートは司法長官ではなくなる」

しかし喜びもつかの間、1964年3月、ロバートがまだ在任中の時ー。

ロバートはホッファが陪審員に賄賂を贈ろうとした事を突き止め起訴。

裁判官はホファに連邦刑務所での8年の刑を言い渡した。

ただし、この起訴は偶然の産物ではなくロバートがホッファ陣営の人物を協力者に仕立て上げ得た情報が元になっている。

ホファが有罪判決を受けたのはこれが初めてだった。

ロバートの功績

ロバートは司法長官としての任期中にの687人のマフィアを起訴、その90%に有罪判が下された。

この中にはニューオーリンズのボス
カルロス・マルセロ、サム・ジアンカーナなどが含まれていた。

ロバートの一連の活動は最終的にRICO法という形で実を結ぶ。

マフィアグッズ専門店
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RICO法は組織犯罪を厳しく取り締まる法律です

この法律の施行は現代に至るまでマフィアを苦しめている。

彼自身の言葉で

1964年、ケネディ大統領暗殺の数か月後、ロバートは記者からのインタビューに答えている。

「私が司法長官になったとき、私は組織犯罪を撲滅するべく活動を始めた。

1960年以前はニューヨークのFBI事務所にはギャングを取り締まる捜査官は10人しかいなかった。

それが63年には140人に膨れ上がった。

シカゴにも当初は6人しかいなかったが、今では80人ほどになっている。

1962年の終わりまでに、アメリカではやっとマフィアの存在が証明された。

全国から集まったボスで構成されるコミッションの存在も。

バラキのお陰で誰がボスなのか、どのように組織が運営され、どのように命令が下されるのかを知ることもできた。

他に大きかったのは国税庁やFBIを一つにまとめたことだ。

私はフーヴァーに言った
『これは私たちが協力してやるべきことだ。そうしなければ出来ない』
彼は同意した。。

フーヴァーは私が入ってきて、長い間存在していたものを変えてしまうと不安に思っていたんだ。

そして私は彼と一緒に努力しましたが、それは私の利益と政府の利益になりました」

しかしロバートが司法長官を辞任するとフーヴァーはかつてのようにマフィアに寛容な方針をとり始めた。

その後ホッファとロバートは共にマフィアによって暗殺され非業の死を遂げている。

結局の所彼らは共に“やり過ぎた”のだった。

今回語られなかったジョン・F・ケネディとマフィアの癒着についてはこちら

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