アルカポネの妻メエの知られざる物語。
アル・カポネの妻メエ
最も有名なマフィア アル・カポネ。彼の人生に大きな影響を与えたのは、妻のメイでした。
当時のマフィアは家族と仕事を切り離していた。
イタリアマフィア式の家庭あり方でもありましたが、その最大の理由は家族を守るため。
そんな家庭を裏で切り盛りしたのは良妻の存在でした。
メイ・カポネについて
1947年、夫のアル・カポネが亡くなった後に彼女に何が起こったのかについては、あまり知られていません。 今回はその秘密に迫ります。
1897年4月11日
ニューヨークのブルックリンにアイルランド移民の娘として生まれたメアリー・ジョセフィン・コフリン。
彼女は生涯を通じてメエと呼ばれた。
人生は至って平穏。
両親は共働きでメエを育て、彼女は兄弟と共にすくすくと成長した。
メイは学校を卒業すると、雑貨屋さんで働き始める。
やがて仕事中に客としてやってきたアル・カポネと知り合う。
二人は惹かれ合いメイは両親の反対を押しきって、1918年12月30日にニューヨーク州ブルックリンで結婚した。
この辺りからメイの人生は波乱に満ちたものとなります。
アルカポネの息子
結婚の数週間前の1918年12月4日、メイとアルに、男の子のアルバート・フランシス“ソニー”・カポネが誕生。
父のアルカポネが梅毒を患っていた影響から、息子のソニーは先天性梅毒を患っていた。
それは緊急の脳手術を必要とする深刻な状態だったが、ソニーは手術を受け生還。
しかし、聴覚障害が残る。
その後、アルとメイはもっと子供を作ろうとしたが、メイがアルから梅毒に感染したため、死産と流産が繰り返された。
その後、数年のメイについては謎に包まれています。
彼女については未だに、多くが謎のままなのです。
アルカポネの浮気
雑誌の報道によると、メイがアルの浮気に気付いた事がある。
メイは離婚は切り出さなかった。
しきさアルの愛人が全員金髪であると知り、同じ色に髪を漂白してアルを驚かせた。
アルカポネはその後、しばらく大人しくしていたとか。。
アルカポネの逮捕
ご存知の通りアルカポネは最終的に脱税で起訴され、1931年に連邦刑務所で11年の刑を言い渡される。
逮捕後はアトランタ刑務所に収監されたのちアルカトラズに移送。
最も悪名高い刑務所の最も悪名高い受刑者となった。
その間もメエは面会に行ったり、手紙を書いてアルを励まし続けた。
また夫が不在の家庭を必死に支え続けた。
そして1939年にアルはついに釈放。しかしアルは廃人のようになっていた。
アルの梅毒は今や彼の脳に広がって重大な損傷を引き起こし、当時のアルではなくなっていたのだ。
そんなアルをメエは変わらず愛し、マイアミの自宅で世話をし続ける。
看病のかいあって状態はかなり改善しアルは外出できるまでに。
それから1947年に脳卒中で亡くなるまで、メエはカポネを見物客やマスコミから守ったり、あらゆる面倒を見続けた。
やがてアルが亡くなると、メエは邸宅を売却し引っ越した。
それからもメエは悪い評判がつきまとう「カポネ」という名前を名乗り続けたというという。
その後のメエカポネ
1964年メイとソニーカポネは、映画会社を相手に訴訟を起こす。
彼女はテレビ番組 アンタッチャブルがアルカポネを馬鹿にし、下品な男として描いていると思い、憤ったのだ。
※このアンタッチャブルは、ロバートデニーロの出演した映画ではなく、ドラマ版。
しかし、連邦地方裁判所とシカゴ巡回裁判所は訴訟を棄却。
メエとソニーは米国最高裁判所に上訴したが、そこでも棄却された。
最期は1986年、フロリダの老人ホームで89歳で死亡した。
秘密を葬ったメエ
メエは日記やラブレター(アルが刑務所から送っていた)を生涯、大事に保管していた。
だが死期が迫ると全てを焼却。
彼女の死後、誰もそれらを見られないようにした。
さらにカポネの死後、出版社は大金(現在の100万ドルほど)を積み自伝を書いてくれと迫ったが、メエは頑なに拒絶したというエピソードも残っている。
一体、日記には何が書かれていたのか、それは永遠の謎となりました。。
ただひとつ確かな事は、アルカポネの収監中と晩年、彼を支えたのはメイだったという事です。