中国の影の帝王

中国の影の帝王

中国マフィア、トライアドのボス、チャン・アン・ロー。

彼は貧乏人からギャングにのしあがり、さらに政界のフィクサーへとのしあがった。

果たして彼はどのようにして、映画のような出世を成し遂げたのだろうか。

内戦の中で

1948年3月13日、アン・ローは中国の南京で生まれた。

彼が生まれた当時、中国国内では数十年にわたる内戦が繰り広げられていた。

蒋介石率いる国民党の中華民国政府と毛沢東率いる中国共産党の戦いである。

最終的に毛沢東が勝利し、その年の10月1日に中華人民共和国が建国された。

蒋介石は敗戦後、東アジアの島国である台湾に逃れ、台北に政府を設立。

蒋介石を追放した者たちとの戦争を続けた。

本国の戦争から逃れて、台湾にやってきた中国人は数知れず、その中には、中国では「トライアド」と呼ばれる組織犯罪のメンバーもいた。

ある人はこう語る。

「中国に残ったトライアドの幹部の多くは処刑された。

逃げ延びた者のうち、多くの者が彼らのリーダーである蒋介石に従って台湾に渡り、蒋介石は残りの人生を彼らに頼って政権を維持した。

蒋介石は、トライアドと表裏一体だったのだ」

トライアドの始まり

バンブーユニオンとも呼ばれる「連合バンブーソサエティ」は、数千人のメンバーが世界中で活動する台湾最大・最強のトライアド集団となった。

その中にはもちろん、本土の血なまぐさい戦争から逃れてきた貧しい中国人もたくさんいた。

1950年、2年の旅を経て台北にたどり着いたチャン・アン・ローとその両親もその一人だ。

難民となったばかりの彼らは、何の支援も受けられず、まともな賃金を得ることもほとんどできなかった。

幼い頃、チャンは欲しいものを手に入れるために暴力を行使しなければならないと学んだ。

彼の拳を使う彼の能力は、たちまちトライアド達に注目されるようになった。

16歳のとき、彼は連合竹の会のイニシエーション・メンバーになる。

その後、チャンはどんどん出世していった。

が1968年に突如渡米し、ネバダ大学で哲学を学び始める。

その後、サンフランシスコ近郊のスタンフォード大学に進学し、ロサンゼルス郊外のモントレーパークでレストランを経営するようになる。

ただし堅気になったのではなく、その間アメリカの連合竹組の活動にずっと関わっていたという。

トライアドは、ギャンブル、売春、恐喝、麻薬の売買に関与していたとされる。

そのメンバーは、中国系移民の忠誠心をあてにしていた。

あるユナイテッド・バンブーのボスは、米国の法執行機関によって、こう語ったと記録されている。

「ロサンゼルスからフロリダまで州間高速道路10号線を走り、中華料理店を見かけたら、そこに入って『ユナイテッド・バンブー』のメンバーだと言えば、面倒を見てもらえる。

お金や食べ物、泊まる場所など、あらゆるものをだ」

しかし当時38歳だったチャンは、刑務所からニューヨーク・タイムズ紙の電話インタビューにこう答えている。

「私は台湾でギャングの一員だった。しかし、私のようなギャングがアメリカに来たのは、犯罪目的ではなく、学生やビジネスマンになるためにです。

それも個人的に」

政治指導者

1980年代初頭、竹中連合会は台湾の国民党幹部から、台湾のアメリカ人ジャーナリスト、ヘンリー・リュウの殺害を依頼されるほどの力を持つようになった。

台湾の総統である蒋経国の伝記や辛辣な記事を書いた後、彼はヒットリストに載せられていたのである。

竹中三国志連合は、当時、陳智麗が率いていた。

陳はチョウの親しい友人の一人で、幼なじみで組内でも出世していた男だった。

下調べの結果、暗殺は1984年10月15日に予定された。

前日、リュウの妻は、カリフォルニア州デイリーシティの家の近くで、2人のアジア系男性が自転車に乗っているのに気づいた。

その日の朝、彼女は再び彼らを見た。

そして午前9時頃、彼女はガレージで騒ぐ声を聞いた。

2人の男がリュウと対峙し、もみ合いになっていたのだ。

ながて犯人の1人リリュウの頭を撃ち抜き射殺。

もう一人は駄目押しにリュウの腹部を2発撃った。

この犯人は呉敦と董圭仙という男である。

二人は台湾の軍事情報部によって訓練されていた。

また、関与したものは台湾に逃げ帰れば安全だと約束されていた。

が、そうはならなかった。

陳と呉屯は暗殺後、台湾に戻ると終身刑を宣告されたのである。

命令を下した関係者の一人、ワン・シーリン提督も同様である。

それを知った董圭仙はブラジルに潜伏していたが、FBIに発見され逮捕されてしまう。

そしてアメリカで裁判にかけられた。

その後の陳の証言、そして陳が所属するトライアドからのリークによって、在米台湾人社会と台湾国外に住む台湾人に衝撃が走ることになる。

自分たちの指導者が、ギャングに殺害を命令したのか。

そんな声が広まっていった。

この事件により、台湾の政党に対する信頼は過去最低となり、台湾はより民主的な政治体制への道を歩むことになる。

しかし、劉の殺害に直接関わった者の中には、多少なりともハッピーエンドを享受した者もいた。

1991年1月、陳、王、呉の3人は刑務所から釈放された。

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次回に続きます

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