ベニー・ビニオンの帝国
ベニー・ビニオン
今回は、あのトニー・スピロトロさえ恐れる大物カジノ経営者を紹介していきます。
元マフィアから成功を納めた、ベニー・ビニオンの経歴とはー!?
ビニオンの生い立ち
1904年11月20日、ビニオンはテキサス州ダラスの北にあるグレイソン郡のパイロット・グローブで生れ育った。
ビニオンは生まれながらに虚弱で、両親は彼を学校に行かせようとしなかった。
そしてビニオンは、馬の商人であった父と旅をするようになる。
ビニオンは後に、学校で正式な教育を受けなかったが、 父と旅をするうちに、ギャンブルやビジネスを学んだと話している。
FBIのファイルにビニオンが初めて登場するのは、1924年。
窃盗、武器の携帯、2つの殺人の前科があることが記載されている。
ビニオンは18歳の時にエルパソに移り、禁酒法時代に密造を始めた。
その1年後、ビニオンはダラスに移り、再び密造を始め、2度有罪判決を受けている。
1928年にビニオンは酒の製造に加えて!ギャンブルビジネスを開始する。
ビニオンがメインにしたのは、ナンバーズ賭博。
日本でもよく知られるロト6のようなものである。
ビニオンは学校には通っていなかったが、商人の父の手伝いをしていたため、数字にはめっぽう強かったという。
また、人心を操る術に長けていた。
ちょうどこの頃、ダラスのマフィアのボスでビニオンの後ろ楯だったウォーレン・ダイアモンが自殺した。
それにより空いた王座には、若手ながらも頭のキレるビニオンが座った。
ダラスの王
ボスになってからのビニオンは、威厳を示すために、多くの暴力事件を起こしている。
1931年、ビニオンはアフリカ系アメリカ人のラム酒密売人フランク・ボールドを射殺し、有罪判決を受けた。
これ以来、ビニオンは「カウボーイ」というあだ名で呼ばれるようになる。
この事件でビニオンは逮捕されたが、2年の執行猶予付き判決を受けた。
さらにビニオンは、借金を返さないチンピラの目に鉛筆を突き刺して殺害するという事件を起こす。
こちらは未解決のまま処理されたが、噂は暗黒街中に流れた。
1936年、ビニオンはダラスのダウンタウンにあるサウスランドホテルを含むいくつかのホテルでダイスゲームを始めた。
この年の終わりまでに、ビニオンは地元の有力政治家を買収することに成功。
ビニオンがボスになってから、急成長したこの組織は“サウスランド・シンジケート”と呼ばれ、FBIの知るところとなった。
1936年、ビニオンと子分はナンバーズオペレーターで競争相手のベン・フリーデンを殺害し、ピストルを彼に撃ち込んだ。
ビニオンはその後、自分の肩を撃ち、警察に出頭。
フリーデンが先に自分を撃ったと主張した。
ビニオンは起訴されたが、後に正当防衛が認められ起訴は棄却された。
1938年、ビニオンと別の子分は、ビニオンの賭博ラケットの競争相手のひとりであるサム・マーレーを殺害。
ビニオンはこの殺人で起訴されることはなく、彼の子分に対する告訴も取り下げられた。
こうした暴力で、1940年代初頭までに、ビニオンは全米屈指のマフィアのボスとして君臨するようになった。
因果応報
ビニオンはフォートワースのギャンブル組織を乗っ取ろうと思い付いつく。
それから間もなく、地元マフィアのボス、ルイス・ティンデル殺され、組織はビニオンの傘下に下った。
しかし、やったことは返ってくるものだ。
当時、アメリカ最強とされたシカゴのマフィア、アウトフィットがダラスへの侵攻を開始したのだ。
ちなみにその目的は、大統領選の票まとめたを仕切るためであった。
アウトフィットの侵攻は政治的に行われた。
1946年、アウトフィットはダラス郡の新保安官に息のかかったスティーブ・ガスリーを選出させることに成功。
さらにビニオンが抱き込んでいた政治家をより多くの現金で買収。
地元政府との関係を失い、厳しい取締りを受けたビニオンはラスベガスに逃亡した。
ラスベガスへ
ダラスにいた時、ビニオンはギャンブラーであるハーバート・ノーブルと対立しており、それはラスベガスに移ってからも続いた。
アウトフィットがダラスに侵攻する少し前、ビニオンはノーブルにアガリを25%から40%に増やすよう要求した。
しかしノーブルはこれを拒否した。
ビニオンはノーブルの頭に懸賞金をかけ、最終的に25000ドルとノーブルのビジネスを得た。
ノーブルは何度も命を狙われ、時には銃傷を負って間一髪で逃げ延びたこともあった。
それに1949年11月には、ノーブルの妻が、彼を狙った自動車爆弾で殺されている。
そんな経緯から、ノーブルは落ち目となったビニオンへの報復を目論む。
彼は自家用飛行機をラスベガスへ飛ばしてビニオンの家を爆破しようと計画したのだ。
しかし、計画を実行する前に地元の警察によって拘束され、爆破は未遂に終わった。
そして計画はビニオンの知るところとなった。
1951年8月の朝、ハーバート・ノーブルが郵便受けへ新聞を取りに行ったところ、車が大爆発した。
彼は即死だった。
カジノの帝王へ
1949年、ビニオンはラスベガスに「ウエスタナー・ギャンブルハウス・アンド・サルーン」をオープンした。
これはいわゆるカジノホテルであったが、パートナーとの対立ですぐに売り払っている。
1951年、彼はエルドラドクラブとアパッチホテルを購入。
名をビニオンズ・ホースシュー・カジノと変更し開業。
ビニオンのカジノは賭けの上限が高いためすぐに人気を博した。
彼は当初、クラップステーブルの限度額を500ドルに設定したが、これは当時の競合他社の限度額の10倍であった。
競争相手を出し抜いた結果、ビニオンは脅迫を受けたが、結局カジノは彼についていくために限度額を引き上げた。
さらにビニオンは,プレイヤーの最初のベットより大きくない限り,プレイヤーからのどんな大きさのベットも許可していた。
ビニオンは、ラスベガスのカジノ革新の先駆者であったのだ。
彼はまずダウンタウンのグリッターガルチで初めておがくずで覆われた床をカーペットと交換した。
それからカジノへの顧客の送迎にリムジンを派遣することを思い付いた。
さらに、ギャンブラーへ無料でドリンクと食事を提供し始めた。
ビニオンは、こうした核心的なサービスを思い付いた理由をこう話している。
「単純な哲学だよ。良い食事、安い良いウイスキー、そして良いギャンブル」
ビニオンはギャンブラーに寛大であることで知られていた。
ホースシューでは、深夜2時になるとステーキス販売をしていた。
その価格はなんと2ドル。
ステーキの肉のほとんどはビニオンのモンタナ州の牧場から提供されていた。
脱税裁判
1953年、ビニオンは脱税で起訴、有罪判決を受けた。
ビニオンは訴訟費用をまかなうために、ホースシューの株の大半をギャンブラー仲間でニューオリンズの石油会社であるジョー・W・ブラウンに売却した。
ビニオンの家族は1957年にホースシューの支配権を取り戻したが、1964年まで全支配を取り戻さなかった。
また、ビニオンは、カジノ経営のライセンスを剥奪され、二度と許可されなかった。
しかし、代わりに息子のジャックがホースシューのライセンシーとなり、ベニーは広報部長に任命されている。
ビニオンは生涯を通じてカウボーイを装っていた。
ネクタイはほとんどせず、カウボーイシャツのボタンに金貨を使用した。
銃の所持を禁じられていたにもかかわらず、生涯少なくとも1丁のピストルを携帯し、ショットガンを身近に置いていた。
ポーカーブームの立役者へ
ビニオンは、ポーカーに自信がなく、ほとんどプレイしなかった。
しかし、ゲーム自体は好きで、世界大会まで企画している。
それまでポーカーは、マイナーなゲームだったのだが、ビニオンが世界大会を創設したことで、広く知られるようになった。
ポーカーの人気はビニオンの予想を遥かに越えていた。
彼は、大会の参加者は50人程度になるだろうと推測していたが、参加者は8,773人もいた。
1989年12月5日、ビニオンは85歳で心不全でこの世を去った。
翌年の1990年、ビニオンはポーカー発展への功績を認められ、殿堂入りを果たした。
ホースシューのその後
ホースシューは、その後ビニオンの家族が経営していたが、再び脱税で経営陣が起訴されてしまう。
資産が凍結され、ホースシューは経営破綻に追い込まれた。
その後、ハラーズ・エンターテインメントに売却され、現在はビニオンズ・ギャンブルホール&ホテルと名を変え営業を続けている。