フラチアーノと二人のトニー

フラチアーノと二人のトニー

フラチアーノと二人のトニー

ジャック・ドラグナ

L.A.のマフィアのボス ジャック・ドラグナは部下のジミー・フラチアーノにこう持ちかけた。

「なぁジミー、こいつらはダメだ。
悪い噂が絶えないんだ。
俺が思うに、奴らを切り刻むしかない。何とかしてくれ」

こいつらとは、アンソニー・ブランカートとアンソニー・ジョセフ・トロンビーノのことだった。

二人のトニーは、カンザスシティで犯罪のキャリアをスタートさせて以降、武闘派として恐れられいた。

1948年、ブランカートはミッキー・コーエンの下で働いていた。

コーエンは同時期にロサンゼルスで幅を効かせていたマフィアで、ドラグナとはライバル関係にある。

そのコーエンはブランカートのことを信頼しており、いつも「本物の紳士」と評していた。

その為、弟分のトロンビーノを故郷から呼び寄せたいと言われたときもすぐにokした。

だが、これが間違いだった。

トニーは二人合わさると、調子にのり始めたのだ。

コーエンは二人の乱暴さをこう振り替える。

「二人は組織からの給料に満足しなくなった。そしてところ構わず人を殴ったり、ブルドーザーでひき殺すようになった」

さらにコーエンは振り替える。

「二人は積極的に行動するようになった。
二人は強盗をやっていたが、、
尊敬していたはずの人たち、私だけでなく、他の人たちのルールに反する強盗をやり始めたんだ。
彼らは野毛の若き血族で、誰彼構わず暴れ回ろうと考えていた。
まあ、その時はあまり注意できなかったんだけどね。
でも、私が問題を起こしたせいで、彼らは誰にも敬意を払う必要がないと思ってしまったんだ」

法的な問題に追われていたコーエンは、ブランカートの相談に乗ろうとはしたが、自分の下に置く時間がないと感じていた。

事実、1951年の初夏には、コーエンは刑務所にいた。

この時、2人のトニーには46回の逮捕歴と17犯の全科があった。

内訳は加重暴行、武装強盗、強盗、麻薬取締法違反、強姦、殺人容疑など。

これではコーエンとドラグナが揃って手に負えないとぼやくのは当然である。

ところでルールに反する強盗とはどんなものだろうか?

例えばマフィアが経営するカジノを叩くことだ。

その代表的な事件がフラミンゴ・ラスベガス強盗事件である。

フラミンゴ襲撃

1951年6月、2人のトニーと他の3人の覆面をしたガンマンがフラミンゴホテルの解雇者用現金保管庫から3,500ドルを強奪した。

そこに偶然ハイ・ゴールドバウムという男が居合わせた。

ゴールドバウムは、ビバリーヒルズで賭け屋を経営していた事がある。

そして、二人のトニーに何度か強盗に入られたことがあった。

その為、ゴールドバウムは覆面越しでも正体を見破った。

ゴールドバウムの証言から2人のトニーはサンフランシスコで逮捕された。

だが、逃亡の恐れはないとされ、二人は早々に保釈されてしまった。

7月、二人は西海岸のノミ屋エイブ・ベンジャミンのエージェント、サム・レイズを脅し3,000ドルを奪う。

この金は本当ならドラグナファミリーが受けとる手はずとなっていた。

後日、再び二人がさらに金を巻き上げようとレイズ宅に向かうと、ジミー・フラチアーノが待ち構えていた。

ジミー・フラチアーノ

まずフラチアーノは「なぜ、レイズを脅すんだ」と質問。

二人は「フラミンゴ強盗事件の弁護資金が必要になる」と答えた。

そこでフラチアーノはこう提案したという。

「レイズことは放っておけ。
そうすれば4万ドルは儲かるヤマを紹介してやる」

二人のトニーはこの提案を受け入れた。

トニー殺害事件

1951年8月6日、フラチアーノと数人の男達はファイブクロッククラブで楽しく飲んでいた。

だがフラチアーノは浮かない顔だった。

アリバイ作りの為に渋々参加したに過ぎなかったからだ。

やがてクラブから2台の車がハリウッド大通りの近くでブランカートとトロンビーノに落ち合うため出発した。

一台目には、フラチアーノ、チャーリー ・”バッツ ・”バタリヤ、アンジェロ・ポリッツィが乗っていた。

ポリッツィはプロの逃走ドライバーだ。

フラチアーノの友人で、後にクリーブランド・ファミリーのメンバーとなるレオ ・”リップス”・ モチェリは2台目の車を運転していた。

彼は不足の事態に備えて、近くで待機することになっていた。

待ち合わせの場所に着くと、フラチアーノはバタリヤの異変を感じたという。

「彼にとって初めての “仕事 “だった。
彼は緊張していた」

そこでフラチアーノはこう声をかけたという。

「リラックスしろ。5秒で終わるよ。
いいか、奴らが車を停めたら、後部座席にすべりこんで、俺が乗ってドアが閉まるまで待つんだ。
それから前の男を殺れ。
銃を空にしろ。
そうすればアンジェロが迎えにくる
安全装置は切ってあるのか?
タマを撃たないでくれよ」

そういってフラチアーノは少し微笑んだ。

やがて二人のトニーを乗せた車が現れた。

バタリアがドアの取っ手をもてあそぶと、フラチアーノが手を伸ばしてドアを開けた。

バタリヤが乗り込み、ジミーがすぐ後に続く。

トロンビーノはハンドルを握り、ブランカートはフラチアーノの前の助手席にいた。

ジミーはウエストバンドから38口径を取り出し、ブランカートの後頭部に押し当て、2回発砲。

その後、トロンビーノに狙いを定め、銃が空になるまで引き金をひいた。

一方、バタリヤは銃を抜くことができず固まって座っていた。

が、突如バタリヤは銃を抜き、1発撃つと自動車から飛び出し、車に向かって走り出した。

もしこの事をドラグナに話したら、バタリヤは処分されるに違いない。

そう思ったフラチアーノはドラグナには何も言わないことにした。

二人はそれからバタリヤの義理の息子の家行き、シャワーを浴びて服を着替え、ファイブクロッククラブに戻った。

何事もなかったかのように。

翌朝、フラチアーノ宅に警察がやってきた。

そして彼と同居していた兄のウォーレンが殺人の疑いで書類送検された。

それからフラチアーノのアリバイを証言したニック・リカタも逮捕。

警察はウォーレンを除いて、殺人計画の参加者を正しく推測していた。

とはいえ証拠はなく、フラチアーノ達にはクラブで飲んでいたというアリバイもある。

しかし、フラチアーノが殺したという確信を持つ警察は頑なに捜査を続けた。

殺人裁判

裁判が始まると、彼らが一晩中クラブにいたと証言したウェイトレスが、

「2人の刑事が家に来て、証言を変えさせるために煙草を押し付けた」と証言したことから、この事件は決着がついた。

2人トニーの殺害によって、フラチアーノは“冷酷な殺し屋”と評判され、街でも恐れられる存在となる。

この事件は、1978年にフラチアーノが連邦証人保護プログラムに加入するまで未解決のままであった。

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