三分で学ぶ ミッキー・コーエン
三分で学ぶ ミッキー・コーエン
目次
1913年9月4日 後のミッキー・コーエンはユダヤ人 マイアー・ハリス・コーエンとしてブルックリンに誕生。
やがて家族はロサンゼルスへ移住し、コーエンは〝新聞売りの少年〟として小銭を稼いだ。
闇のボクサー ミッキーコーエン
十代になるとコーエンは闇の格闘技場にボクサーとして出場するように。
自らの実力に自信を持ったコーエンは、プロボクサーを目指すべくクリーブランドに移住。
しかしプロの世界は厳しく初戦から負けてしまう。
努力し続けたコーエンはやがて、世界チャンピオンに挑むも敗北。
ボクシング界ではナンバーワンになれない。と見切りをつけギャングの道進むことにした。
ミッキーコーエンのギャングデビュー
クリーブランドでマフィアのモー・ダリッツと知り合ったコーエンは本格的にギャングの道を歩み始めた。
しばらくはニューヨークで酒の密売をしていたものの、シカゴの帝王アルカポネの噂をききつけ、シカゴへと向かった
。
シカゴの帝王アルカポネとコーエン
シカゴでアルカポネと対面を果たしたコーエンは、心底感服し、カポネの組織へと加入した。
しかし、直属の上司 ジェイク・グージックとは揉めてばかり。
やがて、グージックはコーエンに殺し屋を送り込む。
バーから出た所に、機関銃を持った殺し屋達が乗った車が表れ、掃射。
コーエンは、自身のコートが汚れるのを嫌い棒立ちでそれを受けた。
結局、殺し屋達は脅すことが目的だったのか、腕が鈍かったのか、コーエンは無傷で済んだ。
しかし、コーエンはこの事件をきっかけにシカゴを離れることに。
バグジーのラスベガス建設
クリーブランドへと戻ったコーエンは、マイヤー・ランスキーの紹介でバグジーのサポート役を勤めることになった。
やがてコーエンはバグジーに協力し、ラスベガス建設に取り組むこととなる。
ちなみにコーエンはこの頃に結婚をしています。
しかし、建設費横領の罪を着せられて、バグジーは射殺されてしまう。
これに怒ったコーエンは、殺し屋が泊まるホテルに乗り込み、ロビーで機関銃をぶっぱなし叫んだ。
「表に出てこい!」
しかし、殺し屋達は部屋に隠れたまま。
警察が来たのでコーエンは仕方なく逃亡した。
ロサンゼルスの帝王 ミッキーコーエン
ずっと誰かの下にいたコーエンは、バグジーの死後、ロサンゼルスのボス ジャック・ドラグナを退け、遂に自らの帝国を築いた。
コーエンはライバルをバラバラにするなど、類い希な残虐性で恐れられるように。
自宅も自家用車も要塞のごとく守りを堅め、万全の体制を整えた。
しかし、コーエンを狙っているのは、マフィアやギャングだけではなかった。。
マフィアの落とし穴、脱税
1951年6月、コーエンは脱税で起訴され、四年の服役を言い渡される。
映画「LAギャングストーリー」はこのあたりをモデルとしています。
1955年10月に釈放されたコーエンは、起訴された事を反省し、隠れ蓑になるような合法事業も数多く手掛けるように。
だが、1961年に再び脱税で起訴されたコーエンは、尊敬するアルカポネのようにアルカトラズ刑務所へ。
しかし、なんとか裏金とコネを使いアトランタ連邦刑務所へ移送された。
ミッキーコーエンの辛い日々
せっかくアルカトラズを脱出したコーエンだったが、アトランタでは刑務官から虐待を受けてしまう。
とはいえ、カポネのように丸くなったわけではなく、1963年には他の受刑者を鉄パイプで殺そうとするなど問題を起こしている。
その翌年、1972年に出所。
コーエンは受刑者への虐待を大々的に世間に訴え、テレビにまで出演。
全米を周り、受刑者の人権を訴えたコーエンは、時の人となった。
最期は、1976年胃ガンで亡くなった。