マイヤー・ランスキーfinal
マイヤー・ランスキーfinal
伝説のマフィア
ヨラム・シェフテルはクライアントのランスキーが1980年の秋に1,000ドルを払ってイスラエルに来なかったことに落胆していた。
マイヤー・ランスキーをテルアビブへ勝利のうちに連れてくることができたら、若い弁護士にとってこれほどの手柄はない。
シェフテルはBBCテレビのニュース・マガジン、「パノラマ」のインタビューでマイヤー・ランスキーについて話すことになっており、プロデューサーの後押しもあってシェフテルは1981年初に話題探しにマイアミへと飛んだ。
ランスキーは若い弁護士の友人が遊びに来ると聞いて大喜びだったが、テレビのインタビューには一切関わらないと事前に念押しした。
ランスキーはシェフテルに連絡した。「2月12日までに来てくれ、空港で待っているから。」
シェフテルが1981年2月12日(木)の午後遅くマイアミに到着すると、ランスキーは娘のサンドラと共に人混みの中で待っていた。
ランスキーはシェフテルにホテルの部屋をとってあると告げ、その前にサプライズで友人の家での特別なディナーに来てほしいと言った。
一行は空港から友人の家に車で向かった。
マイアミ・ビーチを交差する無数の水路のうちの一つのそばに建つ高級なマンションに到着し中へ入ると、廊下の壁にずらりと並んだ帽子を見てヨラム・シェフテルは驚いた。
彼の記憶によるとそれは全て「マフィア・ハット」で、10個か12個が玄関の内側の壁にかけられていたという。
マイヤー・ランスキーの晩年に彼に初めて出会った人はその時の経験を「映画の中にいるようだった」と口を揃えるが、1981年2月12日のヨラム・シェフテルに関して言えばそれはその通りだったと言える。
若きイスラエル人が入った部屋には20名ほどの正装の人間がいて、互いに懇意らしかった。
半分女性、半分男性。半分ユダヤ人、半分イタリア人。
その場の男性のほとんどは70代後半くらいに見えた。
一様に背が低く、日に焼けて、上等な服を着ていた。
シェフテルはランスキーの弟ジェイク、ベニー・シーゲルバウム、そして皆がジミーと呼んでいたヴィンセント・アロに紹介されたことを覚えている。
供されたエレガントなイタリアンのディナーを楽しむと次の間の扉が解放され、一行は隣のラウンジへと移動した。
そこではテレビの周りに椅子が配置されていた。
大西洋を横断したばかりで時差ぼけと疲労の残っていたシェフテルは、ランスキーが自分のことをイスラエル内務省というゴライアスと戦ったデヴィッドとして周囲に紹介していたこともあり、この瞬間まではディナーが自分のために企画されたものだと思い込んでいた。
だが大きなテレビ画面に「ギャングスター年代記」の文字が浮かび上がった。
マイヤー・ランスキーがヨラム・シェフテルを1981年2月12日までにマイアミに呼びたがっていた理由はこれだった。
ラッキー・ルチアーノとバグジー・シーゲル、そしてマイヤー・ランスキーを題材としたNBCテレビのミニシリーズの初回放映日だったのだ。
登場人物の名前が表示されるとあちこちから笑いや嬌声が上がった。
チャールズ・「ラッキー」・ルチアーノ、ベンジャミン・「バグジー」・シーゲル、そしてマイケル・ラスカー。それはラッキーやバグジーと違ってマイヤーがまだ生きていたため、法的な理由から番組制作会社がキャラクターにつけた名前だった。
「おい、マイヤー、」弟のジェイクは椅子から飛び上がって叫んだ。「いつ名前を変えたんだ?」
その後も、観客たちはジョークや解説を飛ばしあいながらその芝居がかった番組を楽しんだ。
「お前がそんなに『frum』だったなんて。」
ジェイクは画面内で若きマイヤー・ランスキーが結婚式を挙げ、新婚生活を送るシーンの蝋燭やユダヤ教の帽子を見てジェイクは笑った。
『frum』とは敬虔なユダヤ教徒の意味である。
ヴィンセント・アロはバグジー・シーゲルマシンガンを構えてカナダから密輸された酒を護送しているシーンに鼻を鳴らした。
「ユダヤ人がこういう仕事をする時の役割はトラック運転手じゃないだろう。」
その場の女性たちはラッキー・ルチアーノ役のハンサムな俳優を気に入っていた。
「チャーリー!」彼女たちは声を上げた。「チャーリー、遊び人なんだから!」
誰もが何かしらの意見を述べたがった。
ベニー・シーゲルバウムは暴力的で軽率な無法者としてバグジー・シーゲルが描写されていることに異議を唱えた。
テレビ局を訴えろ、と。
「どうやって訴えるんだ?」ランスキーは笑いながら言った。
実物の彼はもっと酷かったぞ
マイヤー・ランスキーにまつわる言い伝えが本人にとって娯楽となった、珍しい機会だった。
「おい!マイヤーを見ろよ!」ハイミー・シーゲルがある時叫んだ。
「たいそう楽しそうだぞ!」
「そりゃあそうだろう!」ランスキーは満面の笑みで言い返した。
翌週の木曜日も、そのまた次の木曜日も、シェフテルはランスキーと最初の顔ぶれと共に「ギャングスター年代記」の第二回と第三回を視聴した。
知ったかぶろうとしているテレビ番組は大体において間違っているものだと、その事柄のプロである彼らは思い知り、そのことを大いに楽しんだ。
マイヤー・ランスキーは、マイケル・ラスカー役の俳優が役の準備をすべく自分に連絡を取ろうとしてきたとシェフテルに明かした。
ランスキーそれを無視していた。
だが1981年にヨラム・シェフテルがマイアミ・ビーチで参加した視聴会の様子からは、世界に誤解されていると嘆く「シャイな」マイヤー・ランスキーは自身にまつわる伝説をだいぶ楽しんでいるように見えた。
ヴィンセント・テレサの1973年7月の証言から始まった裁判の際、証言台に立った医師のシーモア・グレイはデヴィッド・ローゼンと話をしていた。
マイヤー・ランスキーを題材とした本を誰かが書くべきなんじゃないか、現実と伝説を照らし合わせたらさぞ興味深い読み物になるだろうし、自分がそれに適任なのではないだろうか、と。
デヴィッド・ローゼンはその提案を丁寧に、そして医師の目には少々偉そうに、却下した。
すでにそのようなプロジェクトに任命すべき人物をランスキーと自分は考えているとローゼンは言い、相手は経験もあるプロなのだと説明した。
1973年時点のシーモア・グレイ医師は医療関係の記事しか書いたことがなかったのは事実だった。
だがE・デヴィッド・ローゼンはこの時の医師の申し出をもう少し検討しても良かったのかもしれない。
数年後、サウディアラビアのリヤド、最先端のキング・ファイサル病院・医療センターの医療ディレクターに就任したグレイ医師は日記をつけ続け、やがて自分の経験を本にした「ビヨンド・ザ・ヴェール」(1983年)を出版した。知見とユーモアのあるグレイ医師の著書はベストセラーとなった。
デヴィッド・ローゼンとマイヤー・ランスキーが伝記を委任しようと考えていたのはコメディアンのジャッキー・メイソンだった。
若いエンターテイナーのメイソンは夏にはキャッツキル、冬にはマイアミ・ビーチで商売をしていたボルシチ・ベルトのコメディアンの中でもすぐに頭角を現したが、ゴールデンタイムの番組でエド・サリバン相手に不適切とされる動作をしてからはすっかり干されていた。
ランスキーはメイソンに同情的だった。
そしてメイソンのスタイルの直球さや、ユダヤ人としてのプライドや生きにくさを共有する観客に投げかけるシャープなコメントが気に入っていた。
メイソンがコリンズ・アベニューの会場でショーをやる時はランスキーと友人たちが頻繁に足を運んだ。
ドーヴィル、ニューポート、コノヴァーなどの会場でメイソンを見ていると、コロニアル・インでジョー・E・ルイスのパフォーマンスを見て笑っていた時代に戻ったかのようだった。
当時と同じようにショーの後にメイソンがテーブルで一緒に飲むことも多く、メイソンとランスキーは友情のようなものを築いていった。
ある日メイソンは自分の復活の鍵となり得るプロジェクトをランスキーに持ち掛けた。それは「マイヤー・ランスキーの一生」なる映画で、ジャッキー・メイソンが主役を張るというものだった。
ランスキーは自分の考えを本という形にすることについて考えていた時期があった。
だが1974年末、友人にこう零していた。
「誰も出版したがらないだろうよ。当局は私の言うことが気に入らないだろうしね。」
このランスキーの考えは正しくもあり、間違ってもいた。
1970年代のアメリカの出版社ならばどこもマイヤー・ランスキーの本を喜んで出版しただろう。
だが彼らが売りたい内容と語りたい内容には隔たりがあり、ランスキーは自分の経験をありのままに語りたいわけでもなかった。
本の可能性についてヨスケーに話をした際には、ランスキーが考えていたのは除け者のつぶやきのような遺言状であって、伝記と言えるものではなかった。
ランスキーはすでに生きた伝説だった。
当局が云々と言う話は、その伝説がいかにして形成されたのかを明らかにしたいということだった。
法は犯してきたにせよ、なぜ自分が選ばれ、国の悪を象徴するような存在に仕立て上げられたのかの説明が欲しかった。
遺言状とも、編集上の分析ともとれるようなものを伝記の代わりに残したいと思ったのは秘密を抱えて暮らす者の本能でもあったのかもしれない。
マイヤー・ランスキーは隠し続けなければならないものを抱えていることを自覚していた。
法を破り、暗殺者と共謀し、彼らが人々に与える恐怖で商売をしてきた。
全ては自覚をもって、意志を持って、自分の利益のためにしたことだった。
それでいて、ランスキーの説明の追求は純粋に知見を広めたいという思いも底にあった。
ランスキーは自分がもっと大きく複雑な何かの一部であることを察しており、人類学的とも言える視点を持ったボルシチ・ベルトのコメディアンがマイヤーの必要としている仲介人に適任だと思えた。
だがジャッキー・メイソンは彼の期待に添わなかった。
1975年にメイソンがランスキーに渡した映画台本のドラフトは1960年代のパルプ・ノンフィクション小説の中身を切り貼りしたものにチキン・スープのジョークを加えたようなものだった。
だがランスキーはメイソンとも脚本家とも全く打ち合わせをしていなかったため、それは仕方のないことかもしれない。
ハリウッドが描きたがる具体的なマイヤー・ランスキー像を突き付けられてある程度は台本を直そうとしたランスキーだったが、最初から3人の足並みの揃わないこのプロジェクトはあまり成功が見込めるものではなかった。
そしていずれにしても1975年の夏のマイヤー・ランスキーは別の可能性も探っていた。
カール・エルベと言う背の低い饒舌な宣伝専門の男がいた。
エルベは1940年代、ベン・マーデンとリヴィエラのナイトクラブの記事をニューヨークのゴシップ誌に書いて名を上げ、イメージ戦略のプロの彼のクライアントは鉱山労働者組合からレヴロンのチャールズ・レヴソンまで多種多様だった。マイヤーがライターとして任命すべきは誰なのか、その人選を引き受けたのがエルベだった。
エルベはポール・サンというニューヨークの新聞社の推奨した。1949年からニューヨーク・ポストの編集長を務めていたサンは、ギャングスターやニューヨークの高級娼婦業に昔から強い関心を持っていた。
ダッチ・シュルツの伝記を執筆した経験があり、デーモン・ラニアンの世界観にも精通していた。
マイヤー・ランスキーの人生を正確に描写するのには彼こそが適任だ、とエルベは考えた。
ランスキーはサンと面識はなかったが、耳に入ってくる話は好ましかった。
1950年代の初めごろにサンのポスト紙はジョゼフ・マッカーシーを批判した数少ない新聞の一つだった。
カール・エルベはただの後援育成者だったかというとそうでもない。
ポール・サンがマイヤー・ランスキーの伝記を書いてはどうかという話は1975年に最初に持ち上がっていた。
サンの旧友であるエルベはそのような本が出版された場合の利益を50‐50で割ろうという念を既に押していた。
そしてエルベはランスキーに、利益をサンと50‐50で割ることで合意させていた。
こうしてカール・エルベはプロジェクトの収益を25%手にすることが決まっていた。
ランスキーが本を出す気になったのには金が大きな動機であったと、マイアミでのエルベの交渉を記したサムのメモには書いてある。
ランスキーの決め手となったのは「$$$」であったと彼は書いていた。
ランスキーはエルベに具体的な金額をたびたび尋ねた。
自分の半生を本にしたらどれほどの売り上げが見込めるだろうか?
ポール・サンのプロとしての意見は、マイヤー・ランスキーが自身の生涯について赤裸々に語った本であれば100万ドルは見込めるというものだった。
自分の取り分がその50%であったとしても、ランスキーにとっては動機としては充分な額だ。
1975年の7月25日、ポール・サンは初めてランスキーに会いにマイアミへ飛んだ。二人は気が合い、マイヤーは公衆電話から長距離電話でサンと連絡を取り合うようになった。
当時の会話の内容からサンは少しずつランスキーが答えてくれるであろう範囲の質問をあぶり出していった。
個人に関する質問は避けられても、もっと一般的な質問の姿でそれをぶつけると答えを聞き出せる時もあった。
これらの質疑応答は今後のもっと詳細なインタビューの予行演習のようなものだった。
サムは直接、犯罪歴について尋ねればうやむやにされてしまうことを最初から恐れており、果たしてその通りになった。
犯罪行為の詳細になるとランスキーは口が重かったが、一方で自分を客観的に見ているところもあり、ユーモアを交えることもあった。
ランスキーが初めて逮捕されたのは若い頃にラッキー・ルチアーノの頭をバールで殴った時だ、とするハンク・メシックの書いた一文に対してはこう応じた。
その頃私はラッキー・ルチアーノの名前も知らなかった。
だがハンク・メシックが頭を殴られた話なら愉快だったな
またあるテーマに話題が及ぶとランスキーはむしろ饒舌になった。
「このことについては何ページも話すことができる。」そう反応したのは、表社会が地下社会を利用していることについてサンが触れた時だった。
それは例えば禁酒法時代に酒を買うことであったり、労働組合の衝突に暴力団員を雇うようなことに代表される現象だった。
「組織的犯罪とは何か?」
ある時ランスキーは言った。
「君はきっと『人々が共謀して犯罪を実行すること』だと答えるだろう。
だが何が非合法であるべきかを考えることはあるか?
免許…銀行…租税回避策…枚挙にいとまがない。
金持ちたちが貧民を利用しようとするから組織的犯罪が存在する。
スキミングをやる人間を追放して、代わりに刑事追訴を免除される税金逃れを合法化した減価償却を導入した。」
マイヤー・ランスキーは生涯を通して合法と非合法の境界線に近いエリアの住人であった。
社会は彼を大きく非合法の方に振れた者として断罪した。
だがランスキーの目には、同じような罪を犯した「真っ当な」人間もたくさんいた。
ウォール・ストリートの奴らと私のしたことの何が違う?
それなのに悪いのは私だけだということにされる
1976年の1月、ポール・サンはインタビューと執筆を集中的にするためにマイアミに二ヶ月滞在することを検討し始めた。
エルベと彼は50‐50の話をサイン入りの書類に残し、ランスキーと自分たちの契約書となる書類も下書きを済ませた。
カール・エルベは執筆の本拠地とすべきアパートメントを4月頭まで契約した。
1976年1月24日、荷造りも済んであとはフロリダへ発つだけというタイミングになって、ランスキーからポール・サンへ電話がかかってきた。
「何か問題でも?」サンは尋ねた。
ランスキーは言った。
「やらないことにした。」
マイアミでランスキーを間近で見ているエルベから、どうも心変わりするかもしれないということはサンも聞いていた。
だがサンが当プロジェクトをニューヨークから応援していたモーゼス・ポラコフに電話をかけると、本人の弁護士もなぜ気が変わったのかが全く思い当たらないようだった。
「マイヤーは金が必要だと言っていたんだが。」サンのメモによるとポラコフはそう口走った。
サンの報せに彼も驚いていた。
マイヤー・ランスキーは一年近くに渡って、伝記の出版の手続きを進めてきたところだった。
マイアミの弁護士、E・デヴィッド・ローゼンもモーゼス・ポラコフと共に巻き込んでいた。
サンとエルベの両者から長時間のインタビューを受け、サンの踏み込んだ質問にも少しずつ答え始めたところだった。
「私の内なる判断に反して、不本意ながらもインタビューに一回は応じた。」ランスキーは1974年の12月にヨスケーにそう話している。
イスラエルでマアリーブ誌のジャーナリスト、ウリ・ダンに話した時のことだった。
その一回でランスキーには十分だった。
カール・エルベとポール・サンが1975年の夏に初めてランスキーに会いにマイアミへ飛んだ時、二人はマイヤーの紹介したホテルに宿泊していた。
オーナーを知っているから割引を効かせてくれるはずだ、と言われていた。
その言動はそれまでに記事の切り抜きなどでサムが得ていたランスキーの知識に一致していた。
マイアミ・ビーチのホテルはランスキーの関係者が牛耳っているというものだ。
そのため室料を満額請求された時は少し意外に思い、そのことをエルベはランスキーに話した。
ランスキーは激怒し、その場でオーナーに電話をかけた。
短いやり取りの後に電話を置いたランスキーはきまりの悪そうな顔をしていた。
それが料金なら仕方ないな
1970年代半ばにはマイヤー・ランスキーの収益力は見る影もなくなっていた。
それと共に影響力も減少し、もはやご隠居だった。
年金受給者として社会給付保障小切手を定期的に換金し、アメリカの退職者協会の会員として「モダン・マチュリティ」なる雑誌を毎月購読していた。
そこにはふすまを使ったレシピや、大きな活字の本の広告、ホリデー・インの割引宿泊プランなどが載っていた。
また会費を払い終えた同協会の会員である彼はれっきとした高齢者だったが、他のアメリカ人の高齢書とは異なり、職業年金を受け取るキャリアは積み上げて来ていなかった。
その意味では、ランスキーの周りは似たような友人が集まっていた。
ベニー・シーゲルバウム、ハイミー・シーゲル、ハリー・ストロムバーグ、イディ・ブルーム、ジミー・ブルーアイズ、ジャック・クーパー、そして弟のジェイク。
ランスキーが隠居後の日々を共に過ごしたのは彼らだった。
時には一人ずつ、そして時には大勢で、彼らは朝食をランスキーと一緒に摂った。ジョークを言い合い、お互いの記憶を試したり議論したりし、思い出を語らい、自身や妻の病気の話になると暗い顔になった。
ランスキーの友人のほとんどが彼より暮らし向きが楽だった。
ハイミー・シーゲルはクリスタル・ハウスにランスキー邸の三倍の広さの家を持っていた。
ジャック・クーパーはテニスコート付きの豪華なマンションに住み、一同は日曜日になるとそこでテニスを楽しんだ。
もうコートに出るほど健康ではない、と言って、ランスキーはデリのテイクアウトを観客やプレーヤーの皆に振舞うことが多かった。
ランスキーのスポーツと言えばジンラミー一択。
ハイミー・シーゲルやハリー・ストロムバーグとエデン・ロックの裏の屋外テーブルに座り、テーブルの端にかけられたゴムバンドでトランプを押さえながら潮風を浴びてゲームを楽しんだ。
ランチは日替わりのスープと、気が向いたらライ麦パンの牛タンサンドイッチ。
マイアミ・ニュース紙の記者、ミルト・ソシンは1978年のある日その食事をランスキーと共に摂ったことがある。
ランスキーがアメリカのメディアのインタビューに応じたのはそれが最初で最後だった。
その年フロリダではマイアミ・ビーチのような都市のカジノ・ギャンブルを認める法律が立案されており、ソシンは旧友のE・デヴィッド・ローゼンに彼のクライアントがこの件についてインタビューに応じてくれないかと頼んだのだった。
その二時間後、ソシンはインペリアル・ハウスでマイヤー・ランスキーのマイアミ・ビーチのカジノについての考えを書き取っていた。
ギャンブルをする人はいなくならないし、ここにもそうした人はたくさんいる。彼らはベガスやプエルトリコやバハマへギャンブルをしに行く。それならここでやらせて、地域の収入にもしたらどうだ
インタビューの条件によってソシンはフロリダの投票案について尋ねることしかできなかった。
だがランスキーの愛読書を聞き出すことには成功した。
それはスピノーザ、ユダヤ教からもキリスト教からも破門となったユダヤ人の著書だった。
またソシンは引退したランスキーの収入源についても回答を得られたが、それは望んでいた答えではなかった。
それは言わない。だが全て申告してあるよ。
ひとつ言えるとすれば、私が死んだ後に何百万ドルが発見されることはない
ランスキーは昼食後に昼寝をとるのが好きだった。
その後はブラザーとの散歩に、テディがいれば彼女も一緒に出掛けた。
テディの生活は亡くなった息子の家族、つまり義理の娘のスーザンと、その娘たちを中心に回っていた。
警察やメディは今でも時折つきまといに来た。
あす日曜日の朝、インペリアル・ハウスの外でランスキーは元FBIの男二人、ラルフ・ヒルとビル・ローマーに行く手を阻まれた。
二人は個人で開業しており、名誉棄損でモー・ダリッツに訴えられていたペントハウス誌の発行者、ボブ・グッチョーネの弁護の証言を収集していた。
マイヤー・ランスキーは目で二人を黙らせた。
この国の若者に腐った内容やポルノを売りつけるグッチョーネなんかよりモー・ダリッツの仲間だと思われたほうがずっとマシだ
その後もマイヤーからはペントハウス誌やプレイボーイ誌、男性向け雑誌、雑誌、メディア全体についての批判が噴出し続けた。
ボブ・グッチョーネは証言台で口笛でも吹いておけ、と吐き捨てた。
気の済んだランスキーが立ち去ると、敬虔なカトリックのローマーとヒルは閉口したというように顔を見合わせた。
ローマーは口を開いた。
「今日はミサに行かなくても良さそうだ。マイヤー・ランスキーに説教されたもんな。」
ランスキーと仲間たちは共通の記憶を題材に出題するクイズも頻繁に楽しんだ。
1970年代後半のある日、ベニー・シーゲルバウムの医者であるデヴィッド・ルッシン夫人のリン・ルッシンがベニーを迎えにエグゼクティブ・ハウスに到着した。
検査をしにクリニックまでベニーを乗せていくことになっていた。
だがランスキーと、もう一人アタッシェケースを持った若い男と何かを話し合っているベニーを見つけたルッシン夫人は目立たないようにそれが終わるのを待つことにした。
話し合いが終わるかと言うタイミングでシーゲルバウムが第三の男に小切手を渡し、男はそれを恭しくアタッシェケースにしまい込んでから立ち去って行った。
ルッシン家はベニー・シーゲルバウムと親しい間柄だった。
リン・ルッシンがその日ベニーをクリニックに連れていくことになっていたのも、医師の妻としてというよりは友人としての厚意だった。
ルッシン夫人は好奇心を抑えきれず、車をしばらく走らせてからこう尋ねた。
「ベニー、言いたくなかったら言わなくてもいいけれど、さっきあなたとマイヤーと一緒にいた男性は誰?そしてあなから受け取って彼がブリーフケースに入れたものは?」
「あれは月賦の支払いだ。」
ベニーは説明した。
年を取って、みんなの意見が割れるたびに図書館へ調べに行くのには疲れてきた。
だからみんなでブリタニカ百科事典を買うことにしたんだ。
彼はセールスマンだよ
80歳の誕生日の前後、マイヤー・ランスキーに人生で初めてのクレジット・カードが送られてきた。
それはビザから銀行経由で一方的に送られてきたものだった。
もう習慣を変えるには年を取りすぎていたのか、マイヤーはそれを使うことはなかったが、名前が刻印された小さなプラスチック片がなかなか気に入っていたらしく、何かと話題に出したり、財布から取り出して友人たちに見せたりした。
使わないまま何ヶ月か過ぎると、ランスキーのビザカードは仲間内でジョークのネタとなっていった。
だがある日ハイミー・クルムホルツが彼に警告した。
「マイヤー、使わないと没収されるぞ。使用されていないカードは取り上げられる。」
ランスキーはワシントンの15番ストリートの南、エスパノーラ・ウェイのコーシャ―鶏が気に入っていた。
マイアミ・ビーチで一番美味しかったし、テディがその鶏で作った料理は美味しかった。
ランスキーは次に鶏を買いに行ったとき、クレジット・カードを店員に渡した。
精肉売り場の男は何も言わずにカードを決裁したが、彼はジャック・クーパーの知り合いだったことが分かり、ランスキーはその後延々とからかわれる羽目になった。
チキン売りの彼はクーパーに言った。
「アメリカはもう破産してるんだろうな。マイヤー・ランスキーが4ドルの鶏を買っていったんだが、クレジットで買わなきゃならなかったんだから。」
80歳を目前に、ランスキーは投票権も取り戻すことができた。
ジョゼフ・ヴァロンからの80歳の誕生日プレゼントだった。
ランスキーの公民権は、1950年にハランデールでのギャンブル事業が重罪とされたときに停止されていたのだ。
だがジョー・ヴァロンはタラハシーに有効なコネがいくつかあった。
知事室にいる知り合いに弁護士はこう説明した。新聞記事にする必要もない。
そもそも有罪判決も解釈の問題だった。
30年前の、今とは違う時代の価値観、すなわち非合法のギャンブルがそのように罰されたというだけのこと。
それにクライアントは癌を患っていた。
イスラエルから戻ってからというもの、ランスキー夫妻は健康面で恵まれていなかった。
ランスキーが1973年にバイパス手術を受けると、1974年にはテディが乳癌を発症した。
手術で進行は食い止められたものの、テディはふさぎ込みがちになった。
ランスキーは最初の妻のアンの看病も下手だったが、二人目の妻の時もほとんど進歩が見られなかった。
テディの場合は精神的な落ち込みの元である肉体的な原因がより分かりやすかったにもかかわらず。
手術から二年がたってもテディは鬱状態になることが多く、その更に二年後も回復していなかった。
だが当時はバディの麻痺の方がより深刻な問題だった。
ほぼ全身を侵すようになった麻痺のせいでバディは常に食事の介助が必要となり、そのことは父親にとって恥だった。
家族で集まる時、ランスキーの7月4日の誕生日、1980年のバディの50歳の誕生日、あるいは珍しくポールが遊びに来る時など―ランスキーは長男に早めに来て食事を済ませるように求めた。
息子が他人に食事を介助されている姿を見るのが嫌だとは口にすることはなかったものの、バディはそれが分かるくらいには父のことをよく知っていた。
どうにか健康状態の下降を食い止めようと、バディは1980年代の頭に手術を受けていた。
それは首と脊椎の上部の位置を揃えるための手術で、光輪のように頭蓋骨の周りに取り付けられた金属の輪が背中の矯正器具に固定されるというもの。
この装置をつけることで頭を動かすことができなくなった。
輪は皮膚を通って頭蓋骨に固定されたネジで頭に固定されていた。
ランスキーは息子の見舞いに来た時もその装置を直視することがどうしてもできなかった。
バディと話しながらも目線は部屋中をさまよい、テレビを眺めたり、窓の外を眺めたり、とにかく息子の頭に痛々しく取り付けられた金属性の装置を見なくて済むように絶えず視線を泳がせ続けていた。
バディは50年前にボルティモアの病院へ見舞いに来ていた時の父の居心地悪そうな姿を思い出すのだった。
バディが手術のために入院する少し前にポールが再婚を宣言した時にも家族全体に動揺が走った。
相手はカリフォルニア出身の女性で、フロリダに来たときにかなりの酒好きであることが発覚していた。
そのことに最初に気づいたのは、二人を自宅に滞在させたサンドラだった。
父親にそのことを相談しようとすると、ランスキーは話題を逸らした。
「お前が家の酒をなくせば、飲まないんじゃないのか。」
ポールはフロリダで結婚式を挙げることにしていた。
サンドラはパーティーに自宅を提供し、父親の友人も何人か招待していた。
「ポールは最初の結婚式で損をしたのよ。」
サンドラはバディにそう説明していた。
遠いタコマの地で1956年に挙げた結婚式は規模も小さく、高額な結婚祝いをもらうこともできなかったという意味だった。
そこでサンドラはイディ・ブルーム、ベン・ゲインズ、ベニー・シーゲルバウム、そしてシーゲルバウムの弁護士、ゲルソン・ブラットにまで招待状を出した。ブラットに関しては確かに裕福な人格者ではあったが、ランスキー家と懇意とはとても言えなかった。
娘が兄の名のもとに強欲な振る舞いをしている、とランスキーはバディに嘆いた。
「お前からも何か言ってやったらどうだ?」
「父さん、」とバディは答えた。
「自分の娘だし、彼女の家なんだよ。招待されただけでも僕はラッキーだ。」
これほど親戚一同が集まる機会もなかなかないと、ジュリー・シトロン叔父さんはランスキーの死後のバディの面倒をどうすべきかと皆に尋ねて回った。
ランスキーと話したジュリーはバディが必要とするであろうケアや医療費をマイヤーが準備できないかもしれないと知って衝撃を受けたばかりだった。
子供たちの中ではポールは最も将来の備えがありそうだと見込んで彼はポールに話をした。
ランスキーは世界が思っているほどの富を持っていないようなので、ポールが弟の力になることはできそうか?
「できない。」ポールはにべもなく答えた。
自分が一番将来に備えているころは彼もよく分かっていた。
「彼らは貯金しなかった。僕はした。なぜ僕がバディの費用を出さないとならない?」
ランスキーの二人の息子の間に何か関係が残っていたとすれば、この時点でそれはすっかり消え去った。
二人は二度と話すことはなかった。
表向きはランスキーは相変わらず穏やかな顔を見せていた。
「君らは本当に後ろ歩きが上手だね。」自分の前を、カメラをこちらに向けつつ後ろ向きに歩くカメラマンやレポーターたちにジョークを飛ばすのが好きだった。
だが裏の顔は陽気さをどんどん失っていた。
旧友たちの死は特にランスキーを落ち込ませた。
ジョゼフ・「ドク」・スタチャーが1977年の3月に亡くなっていた。
バディは父が少しずつ父が衰えていくサインに気づいていた。
不意に眠りに落ちることが増え、忘れっぽいくなっていった。
ランスキーにはクリスマスに子供達に100ドルずつ贈る習慣があったが、1970年代の半ば頃にその習慣は止まり、彼らの誕生日も忘れるようになった。
ランスキー家が昔からそうしてきたように、サンドラはバディを通じてそのことを父に確認しようとした。
だがバディはこう応じた。
「僕にそんなことが言えるとでも?」バディが高利貸しにタスカニーの株を担保として渡してから15年が経っていたが、バディは今もそのことを恥に思っていた。「僕に文句を言う権利はない。」
ランスキーの潰瘍は年と共に大人しくなっていた。
テディは彼の食生活を厳しく管理していた。
コンビーフもサラミも禁止、チキンの香辛料は控えめに。
夫が彼女を看病したよりも上手に夫の面倒を見た。
だがツケが回ってきたのは、禁煙した6年前まで吸い続けていた、パーラメント煙草の方だった。
1970年代の終わり頃、77歳の時にマイヤー・ランスキーはちょっとした運動で息切れするようになっていた。
息が続かず、座って休まなくてはならなくなった。
1980年の2月、弟ジェイクの誕生祝いのディナーでマイヤーは入院すると家族に告げた。
たびたび血痰が出るので、マウント・シナイ病院で医師に診てもらうという。
ジョー・ソンケンのゴールド・コーストでの少人数のディナーだった。バディとサンドラもその場にいた。
外科医たちは癌の進行を止めようと肺の片方を半分切除した。
マイアミ・ビーチの友人たちに会いに来たヤーコブ・アロニは、術後にすっかり弱ったランスキーを見て絶句した。
「すっかり白髪になって別人のようだった。
いつもの溌溂とした感じもなかった。
飼い犬について尋ねたことを覚えているが、彼が何と答えたかは覚えていない。そのあとシナゴーグについて聞くと、ああ、まだ通っているよと答えた。
ラビともまだ話をしている、と。そして急に会話の途中で寝てしまった。」
翌年、ランスキーとテディは西のスペイン語圏の郊外へ向かっていた。
普段の生活の中で訪れる地域ではなかったが、そこにはマイアミのペット墓地、ペット・ヘブンがあった。
そこで営まれるシーズーのブラザーの葬儀に二人は参加するのだ。
ブラザーは数日前、13歳と言う年で息を引き取っていた。
棺の中に横たえられたブラザーの前にテディは涙を流していた。
ブラザーは1960年代、一番ランスキーの監視が厳しかった時も朝夕の散歩の伴侶だった。
テルアビブのビイライ通りでも、マイアミに戻った後のコリンズ・アベニューでも。
飛行機に沢山乗せられ、主人と同じようにたくさんあとをつけられ、写真を撮られた生涯だった。
ブラザー(1968年~1981年)はタイガー(1966年~1968年)の隣に埋葬された。
上に設置された花崗岩には平たい銅のプレートが埋め込まれ、そこには次のように刻まれていた。
「決して忘れることはないほど愛されていた。ランスキー夫妻」
ブラザーの死から数週間の間、ランスキーはもう一匹犬を飼おうかと考えたりもした。だが、自身の健康状態では無理であろうと諦めた。
1982年の夏、ランスキー夫妻はアラスカから出発するクルーズ旅行を予定していた。
だがランスキーが再び弱り、マウント・シナイに再入院すると、医師たちから以前の見通しが甘かったことを告白された。
癌が再発していた。
ランスキーはミネソタのロチェスターにあるメイヨー・クリニックへ飛び、セカンドオピニオンをもらったところ、診断に誤りはなさそうだった。
ランスキーの担当であるハワード・グルーマー医師はテディに夫の余命が3ヶ月から半年であると告げた。
癌は肺から横隔膜へと広がっており、腎臓や脊椎周りの切除が不可能な場所にまで至っていた。
放射線治療で進行を遅らせることはできるかもしれないが、それくらいしかできることはないという事だった。
テディはその知らせを受け止めることができなかった。
医師の言葉は聞こえていたが、その意味を理解することを拒んでいた。
話の内容をランスキーに知らせることはなく、病院の医師の一人が身辺整理を進めているかと尋ねた時も頑なに本人に伝えようとしなかった。
ランスキーはテディの口から医師の言葉を無理やり聞き出そうとしなかったが、あまり希望は抱いていなかった。
ジンラミー仲間のハリー・ストロムバーグには自分の余命がきっとあと一ヶ月程だろうと話していた。
三人目のパートナーであるハイミー・シーゲルが最近亡くなったばかりで、マイヤーもストロムバーグも深く悲しんでいた。
1982年10月の下旬、ランスキーは遺書を作りにマイアミのデヴィッド・ローゼンの事務所を静かに訪れた。
その年の暮れ、コロニアル・インの広報担当にして「おならレコード」を売り捌いたハロルド・コンラッドがマイアミ・ビーチにやってきた。
まだ野心溢れるジャーナリストだった彼は最後に決定的なマイヤー・ランスキー・インタビューを取り付けたいと考えており、カール・エルベに頼んでインペリアル・ハウスのロビーで会えるよう取り計らってもらった。
ランスキーはやつれた容姿でロビーに降りてきた。
放射線治療を20回も繰り返し、挨拶に時間を割く余裕すらもなかった。
「言うことは何もない。何も。インタビューが何になるって言うんだ?何のために?誰も私についていいことなんて書きやしない。」
コンラッドはこきおろす内容を書くつもりはないと反論したが、ランスキーは聞く耳を持たなかった。
声は低く、椅子を近づけないと何を言っているのかコンラドは分からないほどだった。
「私の言葉を引用したり、インタビューに答えたなんて言ってみろ。次の日にはレポーターが20人も追いかけてくるんだ。」
ランスキーは沈黙し、それから少し笑ったように見えた。
「コロニアル・インはいいジョイントだった。金も入ってきたし、楽しかった。」
喘鳴を立てながら立ち上がり、次の月曜日もマイアミにいれば連絡するようにとコンラッドに告げた。
だがコンラッドが電話するとランスキーは再び入院しており、あまり良くない様子だった。
テディが夫を最後に連れて行ったのは1982年12月31日、大晦日だった。
彼女一人では世話できなくなっていた。
放射線治療のせいでやけどをしたように喉が痛いとランスキーは訴え、ほとんど話すこともできず、食欲もなかった。
テディは夫を座らせ、赤ちゃんのように―あるいはバディのように、食事を食べさせようとした。
だがランスキーは口を閉じたまま食べ物から離れようとする。
体重が落ち、脱水状態になってきていた。
それからランスキーは転倒するようになっていった。
急に足の力が抜けるのでテディが駆け寄って受け止めたり、とっさに椅子を夫の方に押して衝撃を和らげなければならなかった。
いつか頭を床に打つのではないかとテディは気が気でなかったという。
マウント・シナイでランスキーは鎮痛剤を打たれた。
他にできることはあまりなかった。
エスターとポールがやってきて、別れを告げるように病院のベッドを囲んだ。
「私がいなくなったら、」とバディについてサンドラに言い聞かせた。
「兄の面倒を見るんだよ。」
「ええ。」サンドラは言った。
「ええ、パパ。そうするわ。」
マイヤー・ランスキーは全身を管に繋がれて苦しそうだった。
定期的に鎮静剤を打っているにも関わらず管を外したがり、1983年の1月14日には食道の管を抜いてしまった。
医師や看護師たちが管を戻そうとするのをテディはその場で見ており、ランスキーは全力で抵抗しながらテディが聞いたことのないような叫び声を上げていた。
その日の夕方、鼻血が止まらなくなり、仕方なく鼻孔に詰め物をして寝かせておくしかなかった。
ランスキーは疲れ切っていたが、まだ妻の顔を認識することができた。
ランスキーはテディに叫んだ。
「放してくれ!」
大量の鎮静剤を打たれた彼は深い眠りに落ち、そのまま目覚めなかった。
翌朝1983年の1月15日土曜日未明、マウント・シナイ病院でマイヤー・ランスキーは息を引き取った。
最後に口にした意味のある言葉は「放してくれ!」だった。
死後の世界
マイヤー・ランスキーは亡くなった次の日に埋葬された。
1983年1月16日、日曜日のことだった。
ユダヤ教は埋葬までの日程が早く、その方がメディアが集まりづらいだろうということもあった。
到着を待つべき遠くの親戚もなかった。
エスターは既にマイアミにいた。
ポールはお別れを言って東アジアへ戻っていた。
テディがジェイク、エスターの三人が棺の前に隣り合って座った。
ランスキーの弟と妹に挟まれ、テディは顔を覆って泣き崩れた。
エスターも一緒に泣いた。
黒い蝶ネクタイに黒いユダヤ教の帽子姿のジェイクは表情を崩さないまま、墓穴の向こうを眺めていた。
一月の弱い日差しの中でネボ山に集まった数十名の中でも、一番初めからランスキーと共に歩いてきたのはジェイクだった。
忠実な弟として全てを内側から眺めてきていた。
ロシアからブルックリンへ、ローワー・イースト・サイドからハバナ・リヴィエラの黄金のカジノへ。
グロドノの泥だらけの路地から温かな南の地へ辿り着いた入り組んだ道のりを、他の誰よりもジェイクはよく知っていた。
1月16日の日曜日にどうにか墓地へ滑り込んだカメラマン達たちのがっかりしたことには、ランスキーの葬儀はギャングスターらしくはなかった。
リムジンや花輪、体格の良い案内役などは見当たらなかった。
棺も飾り気がなく、フロリダの葬儀としては低予算だと思われた。
マイアミ=デイド警察のジョン・サンプソン刑事は葬儀が長く、寒かったことを覚えている。
サンプソンは墓地の外に止めた監視用のバンの中で待機していた。
メディアよりは遠慮があるらしい警察は、参列者達の邪魔をすることはしなかった。
彼から見える限りではそこには故人の家族と、ウルフィーズの仲間の残っているメンバーしかいなかった。
サンプソンはかろうじてヴィンセント・アロの写真を撮ることに成功した。
その日の朝、世界中で新聞の追悼欄を読んだ人々は、ネボ山の慎ましやかな儀式と「ゴッドファーザー中のゴッドファーザー」の死の二つのイメージが容易に結びつかなかっただろう。
マイアミからロンドンまで、その才能と圧巻のキャリアが追悼記事によって記念されていた。
「堅気のキャリアを選んでいたら、ゼネラルモーターズの会長にだってなっていただろうよ。」
マイヤー・ランスキーについて、連邦捜査局のエージェントは仕方なしにそう認めたことがある。
ある勝利の瞬間にランスキー氏は地下街の仲間にこう口走った。
「俺たちはUSスチールよりもビッグなんだ。」
ニューヨーク・タイムズが丸一面かけたランスキーの弔詞は他紙と大差ない内容だった。
そこからはヴァリウムを服用し、クオーター硬貨を握りしめてマイアミ・ビーチの公衆電話を求めて走り回る彼の姿は浮かび上がってこなかった。
ランスキーは「ギャングの会計士、」「アメリカ組織的犯罪史上最も影響力のあるゴッドファーザー」などと書かれ、通信サービスで配信された記事には堂々たる犯罪史が綴られた。
殺人株式会社からマネー・ロンダリング、財務上の手品、そしてランスキーの指揮の元にアメリカ国内の犯罪が「路地裏から役員室まで」出世したのだという主張まであった。
マイヤー・ランスキー2世は祖父の死を新聞で知った。
すぐにマイアミ行きの航空券を手配したが葬儀には間に合わなかった。
だが翌日ジェイク叔父さんにインペリアル・ハウスのアパートメントに連れて行かれ、そこではユダヤ教の習わしに沿って七日間の通夜が行われていた。
テーブルの上には祭壇のように飾られた蝋燭とスカルキャップをかぶったランスキーの遺影が立てられていた。
近所の人や友人達がお悔みの言葉をつぶやきながら玄関から入ってきたり、出て行ったりしていた。
マイヤー2世の知らない誰かが言うのが聞こえた。
「小さな巨人も去ったか。」
祖父が最後の10年間を暮らした家をマイヤー2世が見たのはそれが初めてだった。
内装が質素であることに孫は驚いた。
部屋は小さく、特に眺めが良いわけでもなく、一つだけの寝室にはシングルベッドが二台、左右の壁に沿って置かれていた。
サンドラの姿はなかった。
テディと喧嘩をしたらしく、二人は口を利いていなかった。
バディは病院に戻っていた。
だが家にはジミーとフロー・アロ夫妻がおり、フローは1950年代にポールとエドナが赤ちゃんのマイヤー2世をニューヨークの彼らのアパートメントに嬉しそうに連れたきた時のことを覚えていた。
小さな居間ではテレビがついており、時折ニュース速報がランスキーの写真をラッキー・ルチアーノとバグジーシーゲルの写真とともに映し出した。
バグジーの写真は、バージニア・ヒルの更紗張りのソファでこと切れた際のあのポーズだった。
「『キング』が死にました。」
ニュースキャスターがそう原稿を読み上げた。
それを聞いていたテディは怒りで叫び、タオルをテレビに投げつけて唾をはきかける動作をした。
テディは情緒が不安定で、明るく振舞っていたかと思えば次の瞬間には泣きわめいていた。
マイヤー2世は家の中を眺め、次に何が起きるのか想像しようとした。
本当にこれで終わりなのだろうか?
だがマイヤー・ランスキー2世の記憶に一番残っているのはたまたまジェイク叔父さんとの会話の中で父ポールが新しい相手を見つけ、再婚したこと、そして数年間は彼女と暮らしている事実を知ったことだった。
ポール・ランスキーはどうやら、子供たちにそのことを知らせるのを忘れていたようだった。
1983年2月7日、マイヤー・ランスキーの最終版のの遺言書がマイアミのダウンタウンにあるデイド郡裁判所に提出された。
ランスキーの何百万もの遺産がどうなるのかと興味津々の人々から守るべく、申し立て手続きを担当した巡回区判事フランシス・クリスティは自分のオフィスの金庫にしまうよう指示した。
厳密に言えば公的な文書の閲覧を制限することは判事にはできなかったが、遺言書には大きな秘密も特に隠されていなかった。
以前の遺言や遺言補足書を無効とする条項に続いて、遺言書の大半はマイヤー・ランスキーの死亡時の資産を託したトラストの立ち上げにまつわる内容だった。
金額については明記されていなかったが、テディ・ランスキーにはトラストの純収入(収入の内訳は不記載)の35%の権利を、残りは受託者の裁量でバーナード・ランスキーの「医療ケア、生活維持、福祉」に充てるように、とのことだった。
死亡時のマイヤー・ランスキーの富が本当に3億ドルだったとして、それが(保守的に考えて)8%の利益を生む投資につぎ込まれていたとしたら、トラストが生み出す収入は年間2,400万ドルにもなる計算だ。
遺言書に書かれた65‐35で割ればバディに1,560万ドル、テディに840万ドルが渡っただろう。
しかし、実際にはこのような資産は遺されなかったのだとテディは語る。
「悪い冗談のようでした。」
事実、バディも困窮していた。
前年の5月以来、彼はマイアミ川近くのジャクソン記念病院に実質的に閉じ込められたまま、体の状態の悪化を食い止めるための背骨の修正処置を受け続けていた。
頭に嵌められた輪と修正器具をつなぐ、長く痛みを伴う処置だったが、ついに装置が外れる日が来ると果たしてバディの状態は良くなっていた。
喋り、食べ、笑うことができ、頭の中もこれまでのどの時期よりもはっきりとしていた。
だがバディの根本的な問題は改善したわけではなく、今や書類上でも回復不能な四肢麻痺と分類されていた。
今後改善の見込みがないことは明らか。
首から下は一切動かず、髭を剃ることも、鼻を掻くことも、名前を書くこともできない。
小指すら動かすことができなかった。
袋やカテーテルなくしては生活できず、日中は誰かに車椅子を押してもらい、寝た後も褥瘡を防ぐために一晩に三回は体勢を変えてもらわないといけなかった。
バディが恐れていた日がついに来たのだった。
24時間体制でケアが必要だった。
一日50ドルの医療スタッフを雇う案を却下されて以来、バディは父に24時間ケア要員の話を切り出すのを躊躇していた。
1982年の大半をジャクソン記念病院で過ごしたバディは、長く辛いリハビリ生活の見返りに奇跡的に病状が回復しないものかという一縷の望みを抱いていた。
その希望が潰える頃には父はあと数週間ももたないところまで来ていた。
それでもランスキーは「バディの面倒を見る」と死の床でサンドラに約束させていたし、これまでに何度も「困ったことがあればジャック叔父さんに相談しなさい」と言われていた。
1970年代の初め頃、ランスキーが心臓手術を受けた時にジェイクはバディにこう言っていた。
「父さんからお前のことを任された。」
父が亡くなって一ヶ月ほど経った1983年の2月、バディの元にジェイクとジミー・アロが尋ねてきた。
バディはジャクソン記念病院からアーチ・クリーク病後療養所に移されていた。
北マイアミ郊外のサンドラの家からさほど遠くない場所に建つ、低予算の民間ホームだった。
バディはアーチ・クリークでの滞在が一時的なものだと思っていた。
その後は20年間住んだハワイアン・アイルの部屋と友達のところへ帰れるのではないかと考えていたが、その日ジミー・アロの口から告げられたのはアーチ・クリークを終の棲家としなければならないという言葉だった。
バディはモーテルへ戻ることはできない。
そこでは必要なケアを施すことができなかった。常時、医療ケアが必要だった。
ジミーは亡き父の友人たちと話をしているらしかった。
マイク・ワッセル、ベン・ゲインズ、イディ・ブルーム。
皆、助けになりたいと思っていた。
遺言書とトラストの詳細を最終化させるのに時間はかかりそうだったが、それまでの間、バディは費用の心配をすることはなく、アーチ・クリークの週400ドルの費用はこちらでどうにか工面する、そうジミーは言った。
だが、とジミーはバディに言った。
自分の小遣いについては自分でどうにかしてほしい、と。
回復不能の障碍者としてバディは国から障害年金を月に498ドル受け取っていた。
ジミーとその仲間の考えでは、身の回りの出費―衣服、飲み代、外食費など―をカバーするにはそれで十分だった。
月末前に年金を使い切ってしまったとしたら、バディがギャンブル借金で首が回らなくなった時と同じで、それは「自業自得」なのであった。
こうした話をジミー・アロがしている隣で、ジャック・ランスキーは押し黙って座っていた。
その姿は妙に受動的で、バディには奇異に映った。
ジミー・ブルーアイズがバディの今後について説明する中、ジェイクは人形のように頷き続け、ランスキー似の重ための顔つきは死んだように、目は焦点が合っていないかのように空虚だった。
ジェイクは目の具合がよくなかった。
緑内障を始めとする問題をいくつか抱えており、手術も受けてみたが視力は回復しなかった。
瓶底のように分厚い眼鏡をかけながらもジェイクはどこかぼんやりとした動きで暮らしていた。
足を引きずって歩く姿は実年齢よりも彼を老けて見せ、親友でもあった兄の死によってジェイクはますます心が現実から離れ、精神的に混乱したまま生きているようだった。
ランスキーが亡くなって程なくしてジェイクは脳卒中を起こした。
兄の死から半年たった1983年の夏、ジェイク・ランスキーの意識は以前の半分になっていた。
できることもみるみる減り、人の名前や顔を覚えることができず、覚える気力もなかった。
ランスキーの面倒を見なくてよくなったジェイクは自分の面倒も見なくなっていた。
ランスキーの死を悲しみ続け、生活の張り合いをうしなったままだった。
これからは毎日、誰と朝食をとればいいのだろう?
「彼はすごく父さんを恋しがっていた。」とバディは思い出す。
生き甲斐も特になく、ジェイク・ランスキーは1983年9月に79歳の生涯を閉じた。
ランスキーよりも二歳年下だったが、兄より8ヶ月しか生きながらえなかった。
見る者の胸が痛むようなジェイクの衰弱と死は、ランスキーの人生において上手くいった一面を表していた。
ランスキーは良き兄として生きたのだ。
1983年9がtう21日に検認されたジェイク・ランスキーの遺言書は兄のものに似た形をとっていた。
ジェイクの資産の全てを妻のアンナのためのトラストに入れることを指示し、そこから生じる収入はアンナの死後に二人の娘の間に等分に相続させるという内容だった。
トラストの内訳は公とならなかったが、会計士や弁護士が計算をし終わると、マイヤー・ランスキーが遺した雀の涙と比べてジェイク・ランスキーはそれなりの額を遺していた。
それは予期されたことだった。
兄弟が共に仕事をしてきた中で徹底させていたのは、ランスキーは自分の名義で最低限しか持たず、二人分の合法的な申告対象の収入を紙の上で受け取るのはジェイク、という役割分担だったからだ。
シンガポール・ホテルや、ハワイアン・アイル・モーテルの株もそのようになっていた。
二人が生きているあいだは便利で賢いやり方に思えたが、どちらもいなくなった今、立場上は下だった筈の弟の妻子の方が殆どの合法的な資産を受け取り、賢い兄の方の相続人にはほとんど何も残らないという事態が起きていた。
ジェイクが亡くなり、兄弟が遺したものの差が歴然とするにつれて、イディ・ブルームはジェイクの未亡人、アンナの元へ話をしに赴いた。
バディの医療生活費に貢献してほしい、と伝えるのが目的だった。
だが、アンナ叔母さんは耳を貸したがらなかった。
「ジェイクが毛皮屋のままでいてくれたら良かったのに。」何度もそう言っていた。
夫の遺産のどれほどが本来はランスキーのものであるか、哀れなバディがどれほどそれを必要としているのかをイディはアンナに訴えたが、アンナはジェイクが毛皮産業の仕事をしていた時の話を繰り返すばかりだった。
その話題となると、彼女は亡くなった夫と同じ精神的な混乱をきたすようだった。
遺言状が執行されると、マイヤー・ランスキーから相続される額の小ささや、資産や投資のトラスト収入も整理されていった。
コリンズ・アベニューのアパートメントはランスキーとテディの名義で購入されていたので、それはテディのものとなり、今後もそこに住み続けることができた。
だがランスキーは投資の大半を石油や天然ガスにつぎ込んでおり、1960年代にサム・ガーフィールドとミシガンやオハイオで始めたこの投資は、価値の安定しないものだった。
タイムズ・スクエアの明かりが消灯され、アメリカ中がガソリン・スタンドに行列を作っていた1970年代半ばに、イスラエルから帰国したマイヤー・ランスキーが石油や天然ガスの投資機会を売却していたとしたら、かなりの利益を得ていたに違いない。
リースはその後もしばらくは高騰したままだった。
だが80年代に入ると石油の価格は下がり始めた。
心の余裕のある時のランスキーは、自分のビジネスマンとしてのタイミングの悪さを笑うことができた。
モラスカ、コンソリデート・テレビジョン、キューバで無くした数百万、ラス・ベガス、バハマ、アトランティック・シティ、その他自分が去った後でギャンブルが合法化され、波に乗れなかったこと。
石油と天然ガスの投資でもランスキーは同じようにしくじっていた。
年を取り、病を患い、癌と戦い、バディの心配をしていたランスキーは、80年代初め頃のエネルギー投資や価格の動向に意識を向けていなかった。
実態を知ったのはテディとバディだった。
ランスキーが亡くなる2年前の1981年、ミシガンの原油は1バーレル35ドルにまで上がっていた。
それが死後3年に当たる1986年には15ドルまで落ちていた。
デヴィッド・ローゼンは遺言書の執行をマイアミの同僚、スタンレー・カプランに任せていた。
ランスキーの遺産を一つずつ確認する過程でカプランは、ポートフォリオの中心であるエネルギー投資が驚くべき速さで価値を落としていっている事実を知った。
石油とガスの価格だけはでなく、ランスキーの油井はしばらく前から技術的な問題も起こしていた。
海水が浸水し、硫化水素が蓄積して油の質が落ちていた。
これらを原因に、マイヤーがサム・ガーフィールドから買った採掘場の中でも最も収益性のあったステート・サマーフィールドAが1987年に閉鎖した。
同年末にはマンモス生産を通して購入されたランスキー・ガーフィールド・ベンチャーの全てが閉鎖となり、収益も資産価値もゼロに近かった。
石油とガスの収入は1983から1985年にかけては悪くなく、死後すぐはアーチ・クリークのバディの費用も父の友人たちが払ってくれていた。
またジミー・アロはマイヤー・ランスキーに借りのあった者たちからテディ、バディとサンドラのために返済金を回収した。
未亡人や遺児へのこうした支援は名誉あるマフィアの習わしでもあった。
ジミー・ブルーアイズは約30万ドルを回収することに成功したので、テディとバディ、サンドラにそれぞれ10万ドル渡せる計算となった。
ポールは政府からの賞与で二人目の妻と何不自由なく暮らしていたので支援の必要は思われた。
ジミー・ブルーアイズが自分たちのために動いていることをバディが知ったのはテディからだった。
1985年の春、トラストからの収入が鈍くなって来た頃だった。
「父さんが僕に現金を遺していたのを知ってるかって?」
バディは継母の言葉を思い出す「僕は『いいや』と答えた。すると彼女は『それなら、私から聞いたことは内緒にして』と言った。」
バディがそのことについてベン・ゲインズとマイク・ワッセルに確認するとどうやら本当であるらしいことが分かった。
バディの10万ドルはサンドラが預かっている、と二人は言った。
バディは父の今わの際にサンドラが約束したことを思い出した。
今、手を貸してもらわなければならない。
サンドラに電話すると、ホームへの5,000ドルを払うことに彼女は同意した。
何ヶ月後、トラストからの収入が全くバディに届かなくなるとサンドラは追加で5,000ドルをアーチ・クリークに支払った。
1985年9月のユダヤ教の祭日の直前にバディ・ランスキーはいい知らせを受け取った。
「テディから電話がかかってきて、『バディ、祭日の後に小切手が届く筈よ。』と彼女は言った。」
テディはトラストからの小切手を受け取ったばかりで、バディの分も近いうちに届くはずだと思ったのだ。
だが一週間たっても小切手は届かず、バディはトラストを管理している弁護士のスタンレー・カプランに電話をかけた。
バディ・ランスキーが電話をかけるには、アーチ・クリークの看護師の一人に頼んで廊下の公衆電話のところへ押して行ってもらわなければならなかった。
バディは数十も電話番号を暗記していたので、看護師が彼の指示通りに番号をダイヤルし、受話器を彼の耳に当ててやった。
バディはアーチ・クリークの廊下で、その姿勢のまま悪いニュースを聞いたのだった。
「サンドラに金を返さなければならなかったんだ。」とカプランは言った。
サンドラはアーチ・クリークへの二回の5,000ドルの支払い代として、トラストへ請求を送っていた。
支払いは仮払いとして行っていたので、カプランはトラストに入ってきたバディのための収入からサンドラへ返金していたのだ。
バディは年の初めの方にサンドラと話した際、10万ドルの話はしていなかった。
その時はただ支援を求めただけだった。
「でもそれはあなたのお金じゃない!」テディは事の顛末を聞くとそう声を上げた。
「でもスタンレーはそれを知らないんだよ。」バディは言った。
金の出所を考えれば弁護士に相談できないのは明らかだったので、テディはマイク・ワッセルとイディ・ブルームに話をし、ジミー・ブルーアイズに連絡してもらった。
「ジミーがニューヨークからわざわざ来てくれた。」とバディはそう思い出した。
「彼はサンドラのところに行った。本当かどうか分からないが、そう聞いた。それで彼女は『全部使っちゃった』と。」
パートナーがこの世を去ってから3年経ってもなお、ランスキー家の問題の仲裁をしなければならないことをジミー・アロが不満に思っていたとしても仕方はない。
ジミーはサンドラとその夫に次のように告げたとバディは言う。
「私が拳銃を持っていたら、二人も撃っているところだ。」
ランスキー家の面々の関係が良好だった時期などもともと殆どなかったが、バディをめぐる金のことで修復不能なまでに悪化した。
テディと亡き息子の家族―すなわち義理の娘と四人の孫たち―はバディの味方となった。
かのランスキー遺産の全容がジミー・アロがかき集めた30万ドルだけなのだとすれば、サンドラはその3分の2を手にすることに成功していた。
イディ・ブルームもバディに同情した。
少なくなりつつあるウルフィーズの残りの面子も同様だった。
ベニー・シーゲルバウムは1984年に亡くなっていた。
サンドラはほぼ孤立無援だった。
ジェイクの娘たちもバディ側につき、これはバディにとって幸運なことだった。
彼女たちの母親が1987年に亡くなったあと、ジェイクの遺産を相続した娘たちは母親よりもバディに対する支援の義務を感じていた。
リッキー・シペルスキと妹のリンダ・ベーカーは障害者の従兄弟の生活費を毎月援助することで意思が一致した。
いつも中立的な立場をとるエスター叔母さんも、サンドラによる不自由な兄への酷い扱いに閉口した。
こうしてポール以外の者がみんな、サンドラと連絡を断った。
アメリカの反対側に住んでいたポールの子供たち、マイヤー・ランスキー2世と妹のマイラはこの荒んだいがみ合いに直接関わらずに住んでいたが、彼らは彼らなりの課題を抱えていた。
すでに父親の居場所が分からなくなってから8年が経過し、インペリアル・ハウスの通夜でようやくマイヤー2世はポールの再婚を知ったのだ。
今はマラナ・メイソンと改名したエドナがポールから毎月受け取る生活費の小切手は様々な場所の消印がついており、返送先の住所も書かれていなかった。
子供たちの誕生日になにか色をつけるでもなく、誕生日カードも滅多に送られてこなかった。
マイラは言う。
「まるで私たちを自分の人生から消し去ったみたいに。」
18歳になったマイラはいい加減に状況を変えたいと考え、父に会いに行く決意を固めた。
マイアミ・ビーチに電話をかけても拒絶され、サンドラ叔母さんは特に非協力的だった。
父親に迷惑をかけるのはやめなさい、プライバシーを尊重しなさいと姪に言うのだった。
それでもどうにか、ポールがワシントンD.Cで働いているという情報を聞き出すことはできた。
それなら国防総省に違いないとマイラはあたりをつけ、ペンタゴンに電話をかけた。
数時間かけて、父の部署の署長だという人間に辿り着くことができた。
マイラは不治の病であると嘘をついていた。
「娘がいるなんて知らなかった。」
署長はそう言ったが、やがてポールと繋げてくれた。
マイラはニューヨークで広告関連の仕事をしていたので、ポールはニューヨークまで会いに来てくれることになった。
そこで仕事もあるらしく、30分ほどなら朝食を一緒にとれる、と。
「この8年間、私のことを思い出さなかったの?」ようやく会えた時、マイラはそう尋ねた。
「正直言って、思い出さなかった。」
ポールは娘に向かって言った。
「お前のことも、お兄ちゃんのことも一度も思い出さなかったよ。」
マイラは現在自分が住んでいる女子寮の部屋を見ないかと父を誘った。
「その必要はない。」とポールはにべもなかった。
バージニアに戻らなければならない、と。
またマイラがサンドラ叔母さんが父の連絡先も住所も教えてくれなかったことについて不満を言うと、ポールにはその不満が理解できないようだった。
「僕を守ろうとしてくれいただけだろう。」と彼は言った。
一人の息子は身体的な障害を抱え、もう一人の息子は情緒が欠落していた。
マイヤー・ランスキーの人間的な遺産はその遺言書に負けず劣らず侘しいものだったのかもしれない。
ニューヨークでの短く気まずい再会の後、マイラは父に手紙を送るようになった。
ポールはごく短い返事を彼女に返した。
娘の書いた手紙も同封されており、そこには文法や理論上の間違いが添削されていた。
ポール・ランスキーは1980年代末頃に官職から引退し、ネバダのカーソン・シティ近くのガードナービルに居を移した。
その土地は検討の末に選んだのだと、彼は子供たちに言った。
隠居暮らしするにはここがアメリカで一番安かった。
数年後、マイヤー・ランスキー2世は再会を求めてガードナービルの父の元へ行き、そこで暮らし始めた。
そしてネバダで過ごすうちに、ラスベガスに自分のバーを開くという夢に再び火が付いたのだった。
1990年時点で33歳だったマイヤー・ランスキー2世は痩せ型でハンサム、そしてなかなかの長身だった。
ブライアン・メイソンの名前を捨て、元の名前のマイヤー・ランスキー2世としてラスベガスへ拠点を移した。
職を求めてホテルやカジノへ行くと決まって名前に興味を持った者が大勢集まってきた。
時には祖父と知り合いだったという重役や支配人などに紹介されることもあり、彼らはマイヤー2世と握手を交わして祖父がいかに立派な人間だったかを語るのだった。
そしてぴったりの仕事が見つかれば必ず連絡すると言い残しながら、電話がかかってくることは一度もなかった。
ランスキー家の人々が比較的穏便に集まった最後の時は1985年、前年に亡くなった一人目のマイヤー・ランスキー夫人の墓碑のお披露目の日だった。
バディ、ポールとサンドラの母であるアンは、ウエスト・エンドのアパートメントで毛皮のコートや死んだ鳥、ゴキブリたちと共に74歳まで生き永らえていた。
毛皮には穴が空き、頭髪は絡まり、心身のバランスを失ったアンは家の扉を施錠し忘れることが多く、隣近所の麻薬中毒者たちが押し入ってそこら中を破壊することもあった。
そのアンも一点においては意識がはっきりとしていた。
彼女の死後、金庫の中に子供たちのために12万ドルを貯めていたことが分かったのだ。
生活費は37年に渡って年間4,800ドルであったことを考えると、アンは元夫よりも遥かに真面目に子供たちのための貯金をしていたことが明らかになった。
だがそれが子供たちの手に渡ることはなかった。
まだ元夫が生きていた時にアンは転倒して骨盤を骨折していた。
アンはルーズベルト病院に何ヶ月も入院したのち、療養ホームへ移った。
遺しておこうとした金はそれらの支払いに全て消えたのだ。
サンドラは母の遺体をマイアミまで運び、ネボ山に埋葬するための費用を負担した。
「アン・ランスキー、1910‐1984、永久に私たちの心の中に。」
そう刻まれた墓碑はマイヤーの墓からは150ヤードほど離れて角を曲がった場所の別の区画に設置されている。
サンドラは母の隣に埋葬されたいという希望を語ったことがある。
そのエリアに自立している「ランスキー」の墓標を立てたのもサンドラだ。
バディについてはランスキーの生前、父と埋葬されるべきだと皆の意見が一致した。
テディは虫全般が非常に苦手であるため、地中に埋葬されることを嫌い、シーゲルバウムの霊廟に入れてもらうことにしていた。
霊廟は大理石でできたキャビネットのような構造をしており、アンの墓と反対方向にランスキーの墓から100ヤード離れた場所に建っている。
生きている間も不調和を特色としていたランスキー家は、死後の世界でもそのままでいられるよう各々が取り計らっていたのだった。
マイヤー・ランスキーの最大の物理的なメモリアルと言えば今もハバナにそびえている。
ターコイズのタイル張り、21階建てのそれはマレコンの車と潮風を今日も見下ろす。
30年経った今もリヴィエラ・ホテルはカストロの色褪せたハバナで一番のホテルであり続けている。
キューバ一高級なホテル・ダイニングの称号も当時と比べると格が落ちたことは事実だが、リヴィエラはまだその称号を誇っている。
過去30年、豪奢で高級な施設が新しく造られることのなかったキューバにおいて、リヴィエラ・ホテルの大理石のロビーとシャンデリアはカストロの社会主義共和国のゲストたちの唯一のもてなしの場でもあった。
マイヤー・ランスキーの真のメモリアルは、彼のキャリアにインスパイアされた数々の物語や妄想たちだろう。
大それた悪党達の頭脳、夢にも見たことのないような財産、あらゆる窮地をも潜り抜け、望みを達成する力。
20人の真面目な人間の仕事の成果よりも一人のマイヤー・ランスキーの物語に私たちが満足感を覚えるのは、誰もが心の中では彼のようにルールを破りたいと思っているからだ。
悪の賢さに善は適わないという妄想を私たちは抱いている。
59歳になったバーナード・「バディ」・ランスキーは父親に良く似ていた。
小さく整った容姿、特に鼻や輝く賢い目が瓜二つだった。
あだ名の通り、朗らかに生きる男だった。
小柄で愛想のよい彼が首を回して自分の周りの世界を見るとき、どこかいたずら小僧のような雰囲気が漂った。
彼が自分で動かせるのは首だけになっていた。
だが1989年の3月にバディ・ランスキーが毎日見ていた景色は、いたずら小僧の気分にはとてもなれないものだった。
アーチ・クリーク病後療養所の患者でなくなった彼は一階建ての天井の低い建物に住んでいた。
そこかしこに未処理の簡易便器が置いてある。
廊下にいる者は光を失った目をしている。
二人の女性がひっきりなしにうめき声を上げ、白いひげを蓄えた老人が拘束衣の中でもがいていた。
父の死から6年と数週間がたつ今、バディ・ランスキーは救貧院で暮らしていた。
貧窮したマイヤー・ランスキーの長子は施しを受けてどうにか生きていたのだ。
バディは自分に非があるとは感じていなかった。
ジミー・アロが1983年の2月にジャック叔父さんとアーチ・クリークへ来た時に決めた通り、バディは個人的な出費を月500ドルの障害年金の範囲内に抑えていた。
ギャンブルや高利貸しとは縁を切った。
「女の子とも縁を切った。」やや物憂げに彼は言った。
トラストの収入がすっかり途絶えてしまったのだ。
ミシガンのクレア郡にある油井第6754番が1987年の夏に閉鎖され、スタンレー・カプランがファンドの代理人としてその年の6月に売却した。
収入が無いよりはわずかな資本が戻ったほうがマシだろうと判断して。
トラストファンドの問題を聞いたイディ・ブルームはバディのために金を工面してくれた。
バディの従姉妹であるジェイクの娘たちも幾らか提供した。
トラストからの収入が途絶えた後もバディは2年間は以前の暮らしを続けていたが、1989年の初め頃、5万ドルの支援を最後にイディ・ブルームはこれ以上は力になれないと宣言した。彼にも病身の扶養家族がいた。
生活費を払ってくれる者がいなくなり、障害年金のみとなったバディ・ランスキーはアート・クリークを追い出された。
バディはボロボロのスーツケース、衣類の入った数個のプラスチック袋、そして古いテレビという全財産を持って北マイアミの寂れた一角の施設へと移っていった。
近所には刺青屋が立ち並び、店の窓を強盗防止用の針金メッシュが覆っていた。
厳密に言えばバディは別の福祉センター、ケアの限られた療養ホームに移動しただけのことだった。
だがそのホームは実質べドラムだった。
どこにも行く当てのない、社会の底辺の者たちがそこには集められていた。
他の住人も殆どがバディのように困窮しており、デイド郡の福祉費で生かされていた。
だが周りの者達とバディが異なっていたのは、頭がはっきりしているという点だった。
「根本的な問題は、長生きをし過ぎたということだ。僕はもっと早くに死ぬと思われていた。」
自分を取り囲む薄汚れた陰鬱な部屋を静かに眺めながらバディはそう言った。
この陰惨な場所に収容されたバディは、他の収容者達が目の前で彼のロッカーに入れてあるプラスチック袋を嬉々として漁っていてもただ大声を出すことしかできなかった。
彼は怒りを宿すようになっていった。
父の友人たちや、ジャック叔父さんの娘たちに文句を言うつもりは毛頭なかった。
国からの年金も支給されている中、永遠に彼のことを支援し続けられるわけはなかった。
バディの腹を煮えくり返らせたのは肉親や近親者たちの態度だ。
ポールとサンドラの無関心や、金銭的な話をしようとすると金がないと言い出すテディ。
継母がそれほどまでに貧しいとはバディには思えなかった。
ジミー・アロの10万ドルも受け取っていたし、バル・ハーバーで買い物をする余裕もあった。
バディ・ランスキーは屈辱を感じていた。
若いころはマンハッタンが自分の庭だったのだ。
パーク沿いのアパートメントを持っていて、ジョージ・ウッドやフランク・コステロと交友関係があった。
コパやディンティ・ムーア、スピンドルトップに入店すれば誰もが名前を呼んで迎えてくれ、いい席に案内してくれた。
マイヤー・ランスキーの息子だったはずなのに。
今では北マイアミに収容され、メディケアの担当者が来るのを待つ生活だった。
1989年4月にバディはこう話した。
「生まれ変わりがもしあるなら、それでも戻ってきたくない。」
父の死からほどなくして、バディはマイアミ・ヘラルド紙の若いジャーナリスト、キャシー・マッカーシーに短いインタビューを受けていた。
その時は昔の話ー、マジェスティックで育ち、自分のジュークボックスを持っていた頃のエピソード等を彼女に話したが、ここへきてバディはキャシー・マッカーシーに異なるトーンのコメントを伝えた。
「友達は選べても、親戚は選べない。」
マッカーシーはこの1989年4月9日にマイアミ・ヘラルド紙に掲載された記事の締めくくりにバディのこの一言を引用した。
また記事の中では家族との関係が語られている。
「北マイアミに住む妹のサンドラと、ネバダに住む弟のポールは彼と連絡すらとっていない。」
記事はテディにも触れていた。
彼女は時々、義理の息子にチキンスープをマヨネーズの空き瓶に入れて差し入れしてくる、と。
看護師には瓶を後で回収するから捨てないように、と彼女は念押しするのだった。
バディは家族に捨てられ屈辱を味わわされた。
その痛みを少しでも彼らに返したいと、辛辣な言葉をインタビューでは並べた。
新聞が発刊されるとバディとテディの希薄だった関係にも終止符が打たれ、妹とは完全に縁が切れた。
ポールはクリスマスにカードを送り続けたものの、ポールらしく返信用の住所がカードや封筒に記載されていることはなかった。
バディは例え返信したくても弟に手紙を送ることができなかった。
1989年の夏、バディはメディケアの給付対象に認定された。
最低限の生活費と医療費がそちらで賄われるようになり、彼はアーチ・クリークの大部屋へ戻ることができた。
だが12月の下旬頃にバディは体調を崩した。
1990年1月15日に60歳の誕生日そして父の7回目の命日が到来する予定で、バディは墓参りを計画していた。
当日に行けばテディと鉢合わせる可能性があったため、数日前倒しで。
バディはしばらく前から胸の鋭い痛みを訴えていた。
また最近、車椅子との接触で生じた痛みのある瘢痕組織をジャクソン記念病院で切除したばかりだった。
その手術の前にバディは生前遺言書にサインしていた。
それは危機的な状態になった場合の心肺蘇生や生命維持装置の使用を拒否する内容だった。
「もう早く終わらせたいよ。」と彼は口にするのだった。
「何のために生きればいい?…毎晩、神に情けをくれるように祈るんだけど。」
1982年時点で父の先が長くないと知っていたなら、長く苦しい「輪」の処置で病態の悪化を止めることなどしなかったのに、とバディは後に嘆いていた。
「一緒に逝きたかった。隣に横たわって。」
1989年のクリスマスが過ぎたある日、バディは突然朝食を拒んだ。
ベッドにいたい、と彼は言った。
着替えるのも車椅子に座るのも嫌がった。
昼食も食べず、夕食もとらなかった。
水分は一日中拒絶した。
夜間勤務の者が体勢を変えに来ると、動かされることも拒否した。
このままがいい、と彼は壁に顔を向けたままで呟いた。
彼のことをよく知る看護師の一人が枕元に来て、跪いて話しかけた。
「バディ。私には分かる。諦めてしまったのね。」
バディは輝く聡明な目で彼女を見つめ、頷いた。
二日後、食べ物も飲み物も拒み続けたバディ・ランスキーは亡くなった。壁に顔を向けたまま。
断片
マイヤー・ランスキーが実際には何をしたのか?
何をしなかったのか?
暗黒街の支配者か?
無罪判決は買収によるものなのか?
遺産は遺さなかったのか?
誰かに奪われたのか?
そして、ランスキーはルチアーノ見限ったのか?
全ては謎のままだ。
ルチアーノが金の為に自伝を執筆する事を避難したあとで、自身も金の為に執筆を計画したというのは皮肉だろう。
そして、突如、出版を取り止めたという共通点を持っている。
それから生き方を後悔したという点も。
うまく出し抜いても最後には帳尻が合う。
マフィアの栄光とはそんなものだ。
ランスキーの遺産については、現在では数人の家族や仲間が数10億ドルを受け取ったーという説が濃厚だ。
後の調べによると生前にランスキーは1500万ドルをジェイクに託している。
また、突如“消えた”資産も多く、それらはマネーロンダリングされて国内に戻っていたのではないだろうか。
だとするとー。
ランスキーが公に遺産を遺さなかったのか事には“警察”や“税金”の問題の他に、大きな理由がありそうだ。