マイヤーランスキーPart6

マイヤーランスキーPart6

マイヤー・ランスキーpart6

リトルマン

ランスキーとバティスタ

還暦を迎えた一ヶ月後の1962年8月、マイヤー・ランスキーは人生で初めてイスラエルを訪れた。

その年、ランスキーは心臓発作で倒れてから療養しており、その回復を記念してヨーロッパ旅行に出たのだった。

イスラエルでの二週間はマイヤーにとって特に印象的ものになった。

バディ・ランスキーはそう話す。

「私たちが子供のころはまったくユダヤ人らしくなかった。
クリスマス・ツリーは飾っていたし、ベーコンを食べていたし、バル・ミツワーは祝わなかったし…ユダヤが何なのか、私たちも知らなかった。」

ところがイスラエルに降り立ったランスキーは急に目覚めたようになった。

イスラエルの政治について読んだり話したりするようになり、アラブ諸国に腹を立てたり、彼らの肩を持つように見えるアメリカの政治を議論するようになった。

グロドノでの子供時代を語ることも増え、祖父ベンジャミンへの愛も口にするようになった。

「それまでは聞いたことのないことだった。」とバディは思い出す。

マイヤー・ランスキーとイスラエルの関係は20年近く前、1940年代後半、フロリダとニュー・ジャージーの港湾部のハガナ―への寄付まで遡ることができる。

その更に10年前はドイツ系アメリカ協会の会合を解散させることに尽力していた。

だが1960年代に入ると、マイヤー・ランスキーのユダヤ意識はもう少し熱いものになっていった。

60歳の誕生日を迎えた1962年の7月4日、ランスキーは息切れも激しく身動きも取れない状態で、医者たちは次々と悪くなる臓器を救うのに必死だった。

60をそのような状態で迎えた者なら誰しも自分の生い立ちを振り返ったり、いずれ行く天の国に思いを馳せるのが普通だろう。

ランスキーはそうでなくても非常に大きな分岐点に立たされていた。

アメリカがキューバで事業をできなくなったことは多くの人にとって晴天の霹靂で、ランスキーにとっては財産を壊滅状態に追いやった出来事だった。

また、ランスキーが仲間の中で一番得意としていたこと、つまり高級な、高額のカジノを運営することについては、永久にその芽が摘まれてしまったように見えた。

問題は金だけではなかった。

損失を取り戻し、物質的に困らない生活に戻る方法ならいくつかあった。

自分自身を再び立て直すことの方が困難だと感じた彼ていたは、ユダヤ流の献身の精神に心が救われるということにいつしか気づいた。

ボストンの友人ジョー・リンゼイの助言で、彼がニュー・イングランドに1948年に設立したブランダイス大学のスポーツ・センターに寄付をした。

設立当時、アイビーリーグ校を含む大学の多くにはまだユダヤ人学生の人数制限が設けられていた。

またランスキーは休みになるとハリウッドのシナゴーグへ現金の寄付金を持って尋ねて行った。

「わざわざ足を運んでもらう必要はないですよ、ランスキーさん。」
ある時ファンドレイザーの一人がマイヤーの体調不良を気遣って言った。
「誰かに寄付金の預かりに向かわせますから。」と。

しかしランスキーはこう答えた。

「ありがとう、でも、コミュニティの一員であると感じられるのが好きなんだ。」

1967年にイスラエルが六日戦争でヨルダン川西岸地区に侵攻してエルサレムを占領すると、ランスキーはラビに電話をかけて支持を表明。

寄付金は決して大きくはなかった。

ハリウッドのイスラエル緊急ファンドへマイヤーが貢献した金額は、ブランダイス大学への寄付金と大体同じで1,500ドル以下だったとラビは記憶している。

それでもランスキーは仲間たちにも声をかけ、寄付金を募り、いつでも一番に支持を申し出た。

ラビのデヴィッド・シャピロはそう振り返る。

「私のオフィスにも数回尋ねてたことがあった。座って色んな話をした。
いつも物静かで聡明な人だと感心させられた。常に思慮深く…世界やイスラエルについて話し合うのが好きで、私もそれに応じた。」

イスラエルの運命にマイヤー・ランスキーは真に心を注ぎ込むことにできるものを発見したのだった。

怒りや希望、不安など、日常的に抑圧したり無視してきた感情を露にするきっかけでもあった。

普通の男性なら応援しているスポーツ・チームを応援したり。子供の将来に心血を注ぎこむのかもしれないが、ランスキーはスポーツ好きだったことはなく、子供たちの将来は夢の見甲斐がなかった。

バディ・ランスキーが妻のアネットと出会ったのはノース・マイアミ・ビーチのラスカル・ハウスという飲食店だった。

アネットはラスカル・ハウスのウェイトレスで、外で並んでいる客をテーブルに案内するのが仕事だった。

彼女はバディをいつもいい席に案内してくれた。

バディは不自由のため行列を免除されていたので、友人の腕の助けを借りつつ店頭へと不安定な足取りで向かった。

そしてアネットに初めて自己紹介したとき、違った意味でも自分の特殊さをアピールしたのだった。

「やあ、僕はバディ・ランスキー。マイヤー・ランスキーの息子。」

アネットはマイヤー・ランスキーが誰なのかを知っていた。

彼女はいたく感心したが、現在の彼女が振り返るように、その後のバディとの関係も全て父親の存在の陰に構築されていたようなものだった。

バディはアネットに花や香水を贈り、まめに電話をかけて高級レストランで食事を御馳走した。

彼女はバディのことが好きだった。

ユーモアがあり優しい性格の彼に同情する気持ちもあった。

出会ってしばらくしてバディにプロポーズされると、全ては上手くいくように思えた。1

955年に26歳だったアネットはすでに二度結婚を経験しており、まだ小さい息子がいた。

バディの面倒を見て、入浴や着替えなどの身の回りを世話しつつ、親愛や温もりの溢れた温かい家庭を築く。

その引き換えに彼は経済的な安定をくれるだろう。

子供にとっていい父親にだってなるかもしれない。

「彼に優しくすれば、彼も私に良くしてくれるだろう、そう思っていた。」と彼女は言う。

マイヤー・ランスキーは懐疑的だった。

長男の判断を疑う根拠は十分すぎるほどあり、バディが事を急いていると感じていた。

サンドラの電撃婚が失敗に終わった教訓からも、ランスキーはバディにもう二年待つよう伝えた。

その二年は人生で一番大変だったとバディは話す。

「アネットは待つのを嫌がっていた。だが彼女に、これしか方法がない、父親の考えが絶対なんだと伝えた。」

それから二年が経ってもランスキーはまだ疑っていた。
「バディと結婚したがる女がどこにいる?」とランスキーは疑問をあらわにしていた。。

アネットは背が高く見栄えのする女性で、エヴァ・ガードナーを彷彿とさせた。

整った顔立ちに豊かな黒髪、自信満ち溢れる彼女は服装も高級志向。

ランスキーは金目当てではないかと勘ぐっていたのだ。

1957年の春、バディとアネットの結婚が許された時には建設中にリヴィエラの骨組みがマレコンの上空高くそびえていた。

ジェイク・ランスキーが責任者を務めるナショナル・ホテルのカジノはラス・ベガスのどのゲーミング・ルームにも引けを取らないくらいの儲けを出していた。

ランスキー家は大金を持っており、これからますます裕福になっていくように思えた。

10年か20年後には、バディは何億ドルも相続するかもしれない。

ある日弁護士のジョー・バロンのもとにバディから一本の電話がかかってきた。

「父が、アネットに同意書にサインしてほしいというんだ。」

ヴァロンが電話するとランスキーは猜疑心を拭えていないようだった。

ヴァロンはこう言う。
「はっきり言うと、結婚には反対していた。」

「私に彼女と話させてください。」とヴァロンはランスキーにそう言い、アネットを事務所へ呼んだ。

アネットが思い出す限りでは、その話し合いの核心は婚姻関係が破綻した場合にどうするかという事だった。

離婚となった際にバディの財産への権利を放棄する意思はあるのか?

「もちろんよ、」と彼女は答えた。

「離婚しようと思っているんじゃない。一緒に暮らしたいと思ってる。」

同意書の話はそれ以上出なかった。

アネットは思い出す。
「試されているのだと分かっていた、でも何も問題なかった。引け目もなかった。」

紆余曲折あった末の結婚式は意外にも幸せ溢れるイベントとなり、アネットの希望でハウス・オブ・プライム・リブという、水際の中華レストランで開催された。

バディは父親のビジネスセンスを受け継いだ様子はなく、勤勉さも備わっていなかった。

それでも地に足の着いた強いユダヤ人妻を見つけ出し、彼女は彼の面倒を見る覚悟があった。

おまけに彼女は美しかった。

ポールはタコマから飛行機でやってきた。

妻のエドナは一人目の子供を妊娠中で欠席だったが、今回は妹のサンドラがニューヨークの誘惑を振り切って今回こそは兄の結婚式に出席を果たした。

祖母イェッタは小さく縮んでいたものの、イディッシュで幸せそうに何かつぶやきながらスペアリブをつまんでいた。

「ラムチョップだよ、おばあちゃん。」バディは言った。

ジェイクとランスキーは何年か前に母親をブルックリンから呼び寄せていて、彼女はハランデールの海沿いのアパートメントに暮らしていた。

ランスキーは長男達の結婚祝いに家を贈るつもりでいたが、二人と詳細を詰めていくにつれて、義理の娘についての自分の勘はやはり当たっていたのではないかと思うようになってゆく。

ジェイクも最近結婚した上の娘リッキーにハリウッドの家を買ってやったばかりで、それはモダンでありつつ決して派手ではない22,000ドルの戸建てだった。

同額の家をバディとアネットに買おうと申し入れたところ、アネットに断られた。

「悪くはなかったけれども、好みじゃなかった。クラッカーの空き箱みたいに安っぽくて。だから32,000ドルの家を指して、あれがいいわ、と言ったわ。」

ランスキーは義理の娘の浪費癖ともとれる趣味に感心しなかった。

「あれなら買うが、それが嫌なら何もなしだ」と告げた。「リッキーはあれで満足なのだから、君にも十分だろうと」

アネットは妥協せず、バディと彼女は家なしとなった。義父との関係はその後もぎくしゃくし続けた。

冷たい人だったとアネットは思い出す。

「氷のように冷たい人。目線が突き刺すようで、威圧的だった。なぜかは分からないけれども。だってあんな小さな男性に何ができるというの?それでも怖かった。」

義父と話しているとき、アネットは時に弁護士に尋問される被告人のような気分になった。

「頭をつつき回してくるのよ。『今日は火曜日』と言えば『なぜ火曜日なんだ?火曜日だという根拠は?』と言われるし、『素敵なガラス皿ね』と言えば『プラスチックでなくガラスだとなぜわかる?』と言われるし。ガラスだと思ってるなら、根拠がなきゃまた問い詰められる。根拠なくものを言うことが許されなかった。そのシャツは青?それともターコイズ?ターコイズは混合色。じゃあ何色の混合?変わった人だった。」

アネットはランスキーよりも会う機会の多かったジャック叔父さんの方がよほど接しやすいと感じた。

ハリウッドとハランデールの境のタスカニー・モーテルの交換台でバディが働いて一週間に稼ぐ100ドルに加えて夫がもらっていた100ドルの小遣いはジャック叔父さんが渡しに来ていた。

アネットは思い出す。
「ジェイクはいつも笑っていた。
頭の中身が全部見ているような気分にさせられたわ」

時々会いに行くニューヨークのバディの母、アンの方にはアネットも同情を寄せていた。

義母が昔とはすっかり変わってしまったことはアネットにも分かった。

「アパートメント中にゴキブリがいた。そのゴキブリちゃんを殺さないで!と言うの。『それは人なのよ!』って。
彼女にとってはそれは真実だった。
『ゴキブリちゃん』は友達だったんだから。」

アネットはバディの継母、テディのことはすぐに苦手になった。

私の希望するものを買ってくれたことはなかったとアネットは思い出す。
「いつも彼女が安いと思ったものばかりだった。」

ランスキーからの指示で、テディ・ランスキーは買い物に現金しか使わなかった。

クレジット・カードや引き落としは証拠が残る。

デパートからの特売チラシやプライベート・セールの知らせにはランスキーがハランデールの郵便局に持っていた私書箱を指定し、「レーンよ。レーン。レーン夫人宛に送って。」と言うのだった。

アネット・ランスキーは自分の入った世界がまっすぐではないことに気づいた。

全てに隠れた側面があり、人の言葉もそのまま受け取ると困ったことになりかねなかった。

アネットはバディと共同で銀行口座を使っており、明細を見ると大きな額が動いているのが確認できた。

「あるひ5万ドル入っていたかと思えば次の日には2万に減っている。何が起きてるの?と聞くとバディは『父親に小切手を書くよう言われた』って。父親の指示なら何も聞かずに従うしかないわよね。」

ある日ジャック叔父さんがアネットに会いに来た。
いつもの朗らかさがどこかに消えている。

「君たちの口座がマイナスになっているのを知っているか?」と彼は言ってきた。
「バディがギャンブルで使い込んで不渡小切手を出してるんだ。」と。

バディは妻に嘘をついていた。

小切手を書いていたのは父の指示ではなく、自分の支払いだった。

しかもそれだけではなかった。

マイヤーとジェイク・ランスキーはギャンブル・ジョイントが閉鎖した1950年代前半、オーシャン・ドライブのタスカニー・モーテルに出資していた。

モーテルの業績は悪く、一年後には資金の注入が必要となった。

「保険を売るんだ。」とバディに言った。」

バディはエクイタブル生命と25,000ドルの養老保険契約を結んでいた。

それはバディが子供のころに父がかけた保険で保険料の支払いも全て父が行っていたため、27歳のバディは自分名義のその金の使い道を父に指示されることに特に不満を抱かなかった。

「僕がどう思おうが父の言葉が絶対だった。年配だし、経験も豊富な父が判断を誤るとは思えなかった。」とバディは言う。

しかしタスカニーはバディにとって賢い投資とはならなかった。

モーテルの売り上げは伸びず、1950年代後半にはマイアミの事業家、ミルトン・ホフの率いる投資グループへと経営が引き渡された。

建物をアップグレードし、健康リゾート(「カールスバッド・スパ」)へと生まれ変わらせようというホフの案をマイヤーは承諾し、改築の費用にタスカニーを充てることとなる。

モーテルの名と事業形態を変えて営業しつつ、収益から毎月返済してもらうという計画だった。

タスカニーの株主の一人としてバディにもその支払の一部が入る予定だった。

アネットは夫がギャンブルをすることを知っていたが、せいぜい10ドルや20ドルずつだろうと考えていた。

だが実際には地元の馬券屋に12,000ドルもの借金を作っていたことが発覚した。

バディがハリウッドでゴールド・コースト・レストランを経営するジョー・ソンケンに相談すると、ソンケンはシャイロック、つまり高利貸しにバディを紹介し、そこで12,000ドルを借りたのだった。

ランスキーの息子であるという事実がバディにとって好都合に働くことがあれば逆のこともあった。

馬券屋もフォート・ローダーデール近くのダニアのハイアライギャンブル場も、バディの小切手が当然決済されるものと思って受け取っていた。

高利貸しはもっと懐疑的だった。

タスカニーの株券を担保として要求し、これがバディの一番の失敗となった。

事の顛末を父が知ると、高利貸しに金を返した上で長男にきつく注意した。

ランスキーはまさか自分の息子が借金のカモになるなんて、と信じられないようにこう言った。
「一生ああいう奴らとつるんできただろうな。どうなるか分からなかったのか。」

バディは当時のことをこう話す。
「裁判にかけれられて刑務所に5年入る方がマシだった。」

12ヶ月後、バディは内国歳入庁(IRS)から手紙を受け取った。

「通知書だった。何か僕に記録を調べることになったと書いてある。好きにすればいい、と思った。何のことだか分からなかったが。」

それは12,000ドルに関してだった。

もともとミルトン・ホフのグループから受け取った支払いをギャンブルにつぎ込んで窮地に追い込まれたバディは、高利貸しから借りた金で返済することに問題があるとは思わなかったのだ。

IRS調査。ギャンブル負債。高利貸し。非合法な目的での事業資金使用。ランスキー名義での金融操作。

1962年、60歳で病身のランスキーにとってFBIやIRSの注目を再度集めてしまうのはとどめのようなものだった。

何十年も自分の金をうまく操作し、フロントマンの陰に隠れ、IRSやFBIの調査や監査をかわしてきたランスキーだったが、ここに来てかたわの息子の愚かさに裏切られたのだ。

「怒鳴るようなことはしなかった。」とバディは思い出す。

「だがこちらに向ける視線がね…家長の父のことはずっと尊敬していた。手を上げるような素振りはないし、それが怖かったわけじゃない。ただ目が怖かった。冷酷な目で…」

ランスキーのあまりの怒りに耐えかねたバディはある晩、睡眠薬を一瓶飲んだ。

アネットに向けた遺書には「父の軽蔑に耐えられない」と書かれていた。

妻がバディを病院へ救急搬送させ、それからの数ヶ月でバディはどうにか人生を立て直し始めた。

IRSの調査員は入金された12,000ドルの正体とその周辺について調べがつくと驚くほどあっさりと引き下がったが、ランスキー家の大人たちは全てをアネットのせいにし、皆が彼女に期待したようにバディの手綱をしっかりと握らなかったせいだと感じていた。

しかもバディはアネットに高価なものを買うためにギャンブルしたのだと父に話したことで事態はますます悪化した。

その話を聞くとアネットは激怒した。

「高価なものですって?素敵な家をくれた?いい車?それともダイヤモンド?せいぜい食事くらいしかしていないじゃない。それも半分はあなたが食べたけど。」

バディは弱ったように笑った。
「父は離婚したほうがいいって。」

アネットは語る。
「バディはもう抜け出せなかった。語った。どんどん悪い方向へ行っていた。彼のせいだとは思わない。父親の影の中でずっと生きてきたんだもの。」バディはずっと子供のままだった。」

アネット・ランスキーが振り返るに、彼女とバディの短い結婚生活の中で一番悲しかったのはバディが一度も彼女の6歳の息子に父親らしい振る舞いをしたことがなかったことだった。

彼女は言う。
「父性がなかった。父親がどういうものなのか、バディは知らずに育ったから。」

マイヤー・ランスキーは長男にロール・モデルとしての父の姿を見せてこなかったのだ。

アネットにとっては義理の父としても理想と言い難かった。

その義父の希望であるという離婚にアネットが応じた後、彼女は婚前にサインこそしなかった同意書の内容をそれでも忠実に守り、手当や慰謝料を請求することはしなかった。

代わりにランスキーはアネットの母に現金1,000ドルを送った。

マイヤーランスキー
マイヤーランスキー

お金がかかるだろうからな

サンドラ・ランスキー・ラッパポートはマンハッタンでぜいたくな生活を送っていた。

1960年代の後半、ポールと妻のエドナがニューヨークを訪ねた時にサンドラのアパートメントに滞在したことがあった。

つましい南部の家庭に育ったエドナはそこで初めてランスキー一家が金持ちであることを知った。

「美しく高級なアパートメントだった。入り口ではメイドが赤ちゃんを預かってくれて。ある日寒いので上着を借りようとクローゼットを開けると、毛皮のコートが24着もかかっていた。」

だがポールとエドナはサンドラの生活には感心しなかった。

「一日中寝て、夜通し出かけていた。『朝ご飯を持ってきて、ほっといてちょうだい。』という感じだった。」

ポールは憤った。

エドナは思い出す。

「妹にとても腹を立てていた。息子のギャリーを何時間もメイドに預けたままにするものだから、ポールは『あの子はちゃんとしたものを食べていない』と怒っていた。」

ポールは外でオレンジをひと箱買ってきた。

サンドラは遊び歩いていた。

ボーイフレンドの一人は化粧品会社を経営するプレイボーイ、チャールズ・レヴソン。

ガールフレンドの家を赤い薔薇でいっぱいにすることで有名な男だった。

マーヴィン・ラッパポートと別れた後も関係は良好で、彼はもう同性愛者であることを隠していなかった。

彼のレストラン、スピンドルトップに集まる尖った頭のいい連中のトップに君臨しており、サンドラがそこに遊びに行くことも多かった。

サンドラのニューヨークの友達の一人はエド・ハートネットという男だった。

サンドラとはウェスト・ポイントで出会い、ポールの同期であり友人だった。

ハートネットはハンサムで社交的な性格で、ウエスト・ポイントを卒業して軍役を果たした後にキャリア転換をしていた。

エド・ハートネットはFBIのエージェントになったのだ。

FBIの男とマイヤーの一人娘の間に何があったのかは今もはっきりと分かっていない。

ハートネットは他界しておりサンドラは話したがらないからだ。

FBIの情報管理は厳しく、記録を見ることはできない。だがエド・ハートナーの同僚たちは当時の興奮を覚えていた。

キーフォーヴァー委員会の調査時にFBIはマイヤー・ランスキーのファイルを開いていた。

アルバート・アナスタシアの殺害やアパラチン会合、キューバのカジノとの関わりの全てがマイヤーへの関心を高めさせていた。

1950年代の大部分に渡って司法省の調査は移民帰化局を通じて行われており、そのエージェントであるベンジャミン・エーデルスタインはマイヤー・ランスキーの強制送還を可能とする調査書をまとめようとしていた。そこへ別の情報提供者が現れたのだ。

ランスキーの娘だった。

サンドラ・ランスキー・ラッパポートは証言するのに躊躇しなかった。

「彼にまつわることを何でも話してくれた。」とハートネットの同僚の一人は振り返る。

「何か具体的な出張を予定しているか、どこへ行くのか…電話に聞き耳を立ててまで、彼の尻尾をとらえようとする我々に協力しようとした。」

エージェント達はFBIのニューヨーク犯罪情報チームのメンバーで、サンドラにもコードナンバーを与えた。

「彼女に電話をしたり、会ったりするたびに—と言っても大勢の人がいる場所を除いては二人で会うことはなかったが―ランスキー・ファイルのメモをとった。」

サンドラは自分の発言が全て丁寧に記録されているとは思っていなかっただろうが、話している相手が誰なのかは知っていた。

記録にはこうある。
「エディがどういう仕事をしているのか、我々がどういう人間なのかは分かっていた。父親に対して恨みがあるようで、二人目の奥さんと結婚するために彼女たち兄弟の母親を施設に入れたのだと思っていた。」

彼女自身が説明しないことには我々は予想することしかできないが、父親を裏切るような真似をしたのは混乱と苦しみの中にいたからだと思われる。

父を有罪と断定できるような情報はFBIに提供できず、FBI内では「情報源」として扱われた。

どちらかと言うと役に立ちたい思いが先走っており、「情報提供者」の肩書がつくことはなかった。

そしてFBIが彼女の精神状態を心配することもあった。

「誰だっておかしくなると思うよ、」とあるエージェントは言う。

「父親が若い女のために自分の母親を捨てるのを見せられたら。」

実際にはテディ・ランスキーはアンより四歳年上だった。

テディとマイヤーが出会ったのは離婚から18か月経ってからで、それはアンが初めて施設へ「休養」に行かされた数年後の出来事だった。

よって、テディと結婚するためにランスキーがアンを施設に入れたなどというのはまったくの根拠のない話だった。

だが離婚当時9歳だったサンドラ・ランスキーはこうしたことを確信できず、不安定さと欺瞞の中で育ってきたことがその原因だった。

1948年のクリスマスに独身のふりをした父とフロリダで過ごしたあと、実は数日前に父が再婚していたことを知った時の衝撃がまだ残っていた。

怒りと反抗心に突き動かされてサンドラは早すぎた結婚に安定を求めたが、結婚相手には思った以上に複雑な面があった。

彼女が混乱していたのも無理のないことだった。

「統合失調症だったと思う。」アネット・ランスキーは義妹についてそう話す。
「母親と同じ道を辿るんじゃないかと思っていた。」

バディもこう語る。

「いつでも興奮状態だった。話そうとしても、話せなかった。
いつもあちこち走り回っていて…ニューヨーク中のバーやラウンジに入り浸っていた。それに薬を飲んでいた。処方薬、やせ薬、医者にもらった薬。」

「ニューヨークから彼女を避難させないといけない。薬漬けで駄目になると言った」

マイヤー・ランスキーは娘がFBIの情報源であることを知らなかった。

マイヤー以外の家族も知らなかった。

だが娘のソーシャル・ライフが狂乱状態になりつつあることは聞いていた。

バディはこう振り替える。
「ラウンジのオーナーが父に知らせたらしい。父は『私の代わりに娘を見ていてくれ』としか言えなかった。…そのうち困ったことになるだろうと予想していたが、その通りになった。」

1960年の初めごろ、バディはニューヨークの妹からの電話に出た。

体調が最悪なの、と彼女は言った。

治療を受けるために入院するということだった。

「父さんから電話が来たら、何日か家を空けてるって伝えておいて。」

バディは言った。「それはできない。入院することを僕はもう聞いちゃったわけだし。家には誰がいる?」

「メイド。」

「声が聞こえる距離にいる?」

「ええ。」

「もし父さんが何度もメイドにお前の所在を尋ねて、彼女が『実は入院していて、お兄さんはそのことを知っています』と言ったら父さんは僕をどう思う?黙っていた僕を?」

「分かったわよ、それなら兄さんから伝えて。」サンドラはそう答えた。

サンドラが入院するほど体調を崩しているのだと知ったランスキーはニューヨークまで見舞いにやってきた。

「なぜか産科の部屋に入院していた。」見舞いに行った帰り、ランスキーは不思議そうにバディにそう話した。
「他に部屋が空いてなかったらしい。」

サンドラが退院した時の家族みんなの心配ようを、ポールの妻のエドナは覚えていた。

「ひどい様子だった。ボロボロで…インフルエンザに罹って、療養させないといけないと病院から言われていた。家族みんなで囲んで心配したわ。」

すると一ヶ月後、病院の医師からランスキーのもとに電話がかかって来た。

大きな金額の請求があるのでそれについてと、赤ん坊をどうするのか教えてほしという内容だった。

サンドラが産科に入院していたのは身重だったからであった。

そこで出産し、そこに置いたままサンドラは退院してきた。
名前も付けずに。

ランスキー・ベビーだった。更に悪いことに、未熟児で生まれた赤ん坊には障害があった。

脳性まひか、似たような病気だ。

家族は力を合わせようと団結。
マーヴィンの子供ではなかったが、彼は自分の名を赤ん坊に与えた。
デヴィッド・ジェイ・ラッパポート。

そして驚くべき方面から助けの手が差し伸べられた。

皆が思うよりも意識がはっきりしていたらしいランスキーの分かれた妻、アンが登場したのだ。

髪の毛をくくり、スリッパを靴に履き替え、仕事に取り掛かった。

子供は病院から家に連れてこられ、アン・ランスキーは毎日サンドラのアパートメントに手伝いに来るようになった。

混沌の中に救いがあるとすればこれだ、と皆の意見が一致した。

バディを育てるのに似ていたためか、アンは水を得た魚のようにしばらくは生き生きとしていた。

それでも、小さな孫の健康状態はあまり改善の見込みがなかった。

デヴィッド・ジェイ・ラッパポートはバディより遥かに重い障碍を心身に負っており、数ヶ月も辛抱強く頑張ったアンだったが、やがて諦めざるを得なかった。

面倒を見る人間が他におらず、彼はホームに入れられた。

「植物状態だった。」と叔父のバディは言う。

デヴィッド・ジェイ・ラッパポートは60代となった現在も施設で暮らしている。

普段は感情を表に出さないマイヤー・ランスキーもこの時ばかりは娘のしたこと—そしてしなかったこと—に烈火のごとく怒った。

薬が赤ちゃんにとって良くなかったのだろうか?
妊娠を隠すためにお腹を締め上げていたのか?

父からの電話にポールが出た時、エドナは少し離れたところにいたが、それでも部屋の反対側から電話の向こうの義父の怒鳴り声が聞こえてきた。
ポールは驚いて真っ青になっていた。

「もう二度と会いになど行くものか」ランスキーはポールにまくしたてた。

「ギャリーはどうするの?」父親がサンドラの上の子を可愛がっていることを知っていたバディは尋ねた。

「気の毒だが、仕方がない。」

ほどなくしてランスキー自身も入院した。

ボストンのピーター・ベント・ブリガムにいたシーモア・グレイのもとへ潰瘍の改善を願って来ていたところだった。

その頃ニュー・イングランドに仕事で駐在していたポールの妻エドナが見舞いに来た。

息子の誕生以来「おじいちゃん」と呼ぶようになっていたこの義父の前で、エドナはいつも緊張していた。

ランスキーはもう一人の義理の娘アネットにもそうしたようにエドナにも質問の集中攻撃を施すのだった。

自分の息子たちと結婚した彼女たちに対して、常に優位性を主張しなければならないと感じているようにも見えた。

ところが今回は違った。

病を患い、気分も落ち込んだ彼はすっかり弱っていた。

硬い病院のベッドにパジャマ姿で腰かけ、床に届かない短い脚がぶらぶらとしている様はエドナに憐れにさえ見えた。

ランスキーは話を聞いて欲しがっていた。

「なぜあいつはこうなのかね?」繰り返しそう言っていた。

「なぜこうなる?なぜ人生で何かを達成しようと思えない?」

そこへ病院のボランティアスタッフ、白と赤のユニホームに身を包んだ若い有志のナースが部屋に入ってきた。

「彼女たちを見てみろ、」とランスキーは続けた。

「大学なんて出ていない。なのにこんなにちゃんとやってる!娘がこうだったらどんなに嬉しいか。なぜああなんだ?理解できない。金ならあったのに。進学できたのに。何だって与えてきた。欲しがるものは何でも与えてきたのに…」

ポール・ランスキーが妻のエドナと作り上げた家庭は、バディやサンドラの荒唐無稽な人生と好対照を成していた。

ポールは軍からアナーバーのミシガン大学へ送られ、そこで2年間勉強したポールはエンジニアの修士号を取得して成績優秀で卒業した。

精力的なエドナは不動産の資格を取得し、一男一女の健康で礼儀正しい子供を育てつつ家計を助けた。

ポールの成功は兄と妹の失敗を際立たせ、本人はそのことに誇りを感じているきらいもあった。

ポールはのちに自分の息子にこう語っている。

「兄のように親父のすねを齧って生きるのはごめんだね。お前も自立するように。」

周囲にはそのプライドが意固地になっているようにも見えた。

ポールの卒業時、ポールとエドナランスキーを車でアナーバー案内していると、彼が言った。

「おい、ポール。近くのカーディーラーへ連れて行っておくれ。卒業祝いに新車といこう。」

「いいえ。」ポールは急に堅くなった。「結構ですよ」

エドナ・ランスキーはその自立心が少々行き過ぎていると感じていた。

1957年から1958年にかけてランスキーはリヴィエラ・ホテルの進捗を定期的にポール達に知らせ、ハバナに遊びにくれば費用を全部私持ちにしてやるとたびたび申し出ていた。

ところがポールはことごとくこれを断った。

「もう考える間もなく斬り捨てる感じだった。」とエドナは思い出す。

「それには関わりたくないという様子で。」

ポールの刺々しいまでの自立心は妹と同じく子供時代から培われた怒りから来ているようだった。

エドナは話す。
「ある時話してくれたのは、少年の頃に軍学校へ行かされる際に泣いて、それ以来、二度と泣かないと決めたんだということだった。」

ポールが大人になっても引きずっていた反抗心は、子供の頃に抵抗を示した「インチキな」生活や収入への気持ちをそっくりそのまま反映していた。

ただ、その拒絶感の下には忠誠心と敬意も確かに存在していた。

マイヤー・ランスキーの息子だったポールはウエスト・ポイントで苦労させられることも多く、実の父が国を脅かしているとして米上院議員の委員会から尋問を受けている時に自分が優秀な士官になれることをアピールするのは大変だった。

同級生の中に反ユダヤ感情が広がり、ある指導官などは士官候補生ランスキーに名前を変えてはどうかと提案した。

ポールはその答えを1957年8月4日、エドナが夫婦の一人目の子供を生んだ時にはっきりさせた。

男の子が生まれたのでエドナは「フィリップ」と名付けようかと考えていたが、ポールには子供が生まれるまで温めていた案があった。

息子の名前はマイヤー・ランスキー2世に決まった。

孫息子が増えたことにランスキーが感じた喜びは、名前のことをきくと吹き飛んだ。

「父さんは激怒した。」
そう語るのはバディだ。
「その名前を背負って生きていくのは子供がかわいそうだと言っていた。」

マイヤーランスキー
マイヤーランスキー

私と同じ名前をつけないようにと言ったのに

そもそもランスキーが反対したのは自分の名前が悪名高いものだからだった。

ところが彼やポールよりもユダヤの伝統に詳しい友人たちが指摘した別の理由もあった。

ユダヤ人は存命の人にちなんだ名前をつけることはしない。

エドナもその名前にあまり気乗りしなかったが、夫が嬉しそうなのでよしとした。

初めて母になった幸福感と興奮に紛れて、あまりそのことについて深く考えなかった。

翌年の春、ライフ誌の1958年3月10日号に「問題山積のハバナを悪党達が乗っ取る」という記事が載った。

それはバティスタとキューバのカジノブームについての記事で、リヴィエラやカプリ、ジョージ・ラフトやサント・トラフィカンテ等の名前が登場した。

写真も何枚かあり、その1枚目に映った人物が—「ハバナ・ブームギャンブルと主催の第一人者」というキャプション付きで—エドナが「おじいちゃん」と呼び親しんでいたその人だった。

エドナは面食らった。

「ねぇ、ポール!」彼女は叫んだ。
「見て!ここにあなたのお父さんの写真が!」

エドナは夫が家族のことを話したがらないことを知っていたが、彼の反応は想像以上に激しいものだった。

「彼は雑誌をバン!と閉じて、『こういうものを買うな!』と言いながら捨ててしまった。『こんなことについて話したくもない』と。」

家族に隠された事実がありそうで、エドナはそれまで以上に義父に大して好奇心が湧いてきた。

ポールは結婚相手としては少しばかり期待外れなところがあり、ウエスト・ポイントの学歴やパイロットのユニホームから想像した華やかな男ではなかった。

金遣いも非常に慎重で、それは本人が嫌っていた継母のテディにそっくりだった。
友人も少なく、外出を好まず書斎と称する自室に長時間こもることが多かった。

一方おじいちゃんは太っ腹だった。

ある日義理の娘が腕時計をしていないことに気づくと、次に会ったときにプレゼントしてくれた。

純金の華奢なもので、明らかに高価なものだ。

マイヤー・ランスキーを派手好きや浪費家などと呼ぶものはいなかったが、使うべき時は心得ている人間だったのだ。

ワシントン、タコマに住むポール・ランスキー家の暮らしのハイライトは年に数回のおじいちゃんの来訪だった。

「いつも飛行機から威厳あるシャンとした姿勢で下りてきてね。」エドナはそう思い返す。「鋼でできているみたいだといつも思っていたわ。」

ランスキーは息子と義理の娘の家に滞在せず、タコマ一の高級ホテルであるウィンスロップのペントハウス・スイートを泊まり先としていた。

円形のベッドがあり、ピュージェット・サウンドの湾を見渡すことができる部屋だった。

午後になると息子夫婦の家に車で向かって孫息子のマイヤーと遊んだ。

そして夕方になると一番のイベント、ウィンスロップのグランド・ダイニング・ルーム、もしくはタコマやシアトルの他のお洒落なレストランで楽しむおじいちゃんとの食事だった。

ポールは外食を不要な贅沢と考えていたが、「おじいちゃんが来ているときは特別だった。」とエドナは思い出す。

「おじいちゃんは全ての人と知り合いなんだと思っていた。」
そう話すのはマイヤー2世だ。

彼は現在もメートル・ドテルやウェイターたちが自分の祖父をちやほやと囲み、何か問題はないかと伺う様子を覚えてい
る。

「厨房につかつかと入っていくんだから。そして誰もそれを咎めない。まるで祖父がオーナーであるかのように。」

マイヤー2世は、海軍の豆スープが祖父のお気に入りだったことを覚えている。
そして味にうるさかったことも。

「完璧でないといけなかった。プレーンで、マヨネーズやバターはなし。スパイスが少し利いているだけ。ウェイターが違うものを運んでこようものならすぐに厨房に逆戻りにされるのを見るのが面白かったよ。低い声でこう言うんだ。『ウェイター、玉ねぎは抜きでと言っただろう。』」

マイヤーが訪ねてくるのは家族みんなにとって嬉しいイベントで、エドナ・ランスキーも子供たちも大事な思い出として記憶している。

一度の流産を経て、エドナは1965年の5月に二人目の子供である女の子を出産した。

今度は名づけはエドナの番だった。

彼女は自分の母親の名前であるマイラを娘の名とした。

それは兄のマイヤーの名前とも相性が良く、結果的におじいちゃんへのオマージュともなったのだった。

マイラが誕生したことでタコマ、そして時にフロリダでの家族の集まりは一層賑やかになった。

それでも、ポールと父の間に壁があることにエドナは気づいた。

冷たさや敵意というよりは空虚さという感じで、何も共有するものがないという印象だった。

父と子はまるで他人であった。

親密さはなく、個人的な話も何もしなかった。

エドナは思い出す。
「ガンジー、ゴルダ・メイア、政府のこと。彼らの話題はどれも重要なものだった。だけれどもハグやキスを交わすことはなかった。」

エドナは、義父が空港での再開や別れの場面で身じろぎするのを見ていた。

身体的な接触を避けるためにその場の人などの配置をうまく利用してかわすのだった。

ポールの兄はもっと温かみのある人だった。

バディが泊まりに来るとマイヤーとマイラは叔父とふざけあうのが大好きだった。

無抵抗でベッドに横たわるバディをくすぐったりじゃれあったり、彼が一日の大半は過ごすようになっていた車いすをくるくる回したり。

そうした時もポールは平常営業だった。

家に客人―それも自分の血を分けた兄—など来ていないかのように振る舞い、仕事から帰るといつものように書斎にこもった。

兄弟二人が同席すると気まずい空気が流れ、政治やスポーツ、天気などの話題ばかりだった。

肘掛椅子にぎこちなく座った父と叔父の姿をマイラ・ランスキーはこう振り返る。
「ビジネスマンが二人話し合ってるみたいだった。」

エドナは、ポールがほとんど話そうとしない両親の離婚のトラウマが兄弟をそうさせたのかと考えたり、あるいは母親の精神的な弱さを受け継いでいるのかと心配したりもした。

初めてポールがニューヨークの母のもとへエドナを紹介しに連れて行ったとき、アン・ランスキーは息子を認識できずに玄関のドアを閉めた。

「今忙しいのよ」とアンは言ったのだった。

二度目に訪ねたときはポールのことを覚えていたものの、時間軸が混乱しているらしくこう聞いてきた。「学校はどう?」と言った。

アンはナイトガウンとスリッパという出で立ちで、長く真っすぐな白髪交じりの髪が絡まったまま背中に垂れ下がっていた。

煙草を手放さずにエドナと会話し、数分ごとになぜか口笛を吹いた。

「3分か4分おきに洗面所へ行ってトイレを流す癖があった。」とエドナは思い出す。

「わけもなくトイレを流して、戻ってきてまた煙草をふかして口笛を吹いていたの」

しばらくしてエドナがトイレを借りたいと言った。

「彼女は『ええ、こちらよ。』と言って寝室を通って案内してくれた。」

その部屋の棚には数年分のクリスマスや誕生日プレゼントが未開封のまま置いてあり、きちんと整えられたベッドには案の「友達」、すなわち死んだカナリアが一羽と死んだゴキブリが二匹置いてあった。

「掛け布団を折り返した状態で枕の上に横たえられていた。義母は『しっ!寝てるからね!』と言ったわ」

こうした奇行にもかかわらずアンは意外にも生活面では困っていなかった。

ランスキーからもらう慰謝料の範囲内で暮らし、サンドラの障害児の赤ちゃんの世話に応じたときのように、本当に必要に駆られればきちんと振舞うこともできた。

1960年代前半、ボストンに駐在していたポールとエドナ、ランスキー一家のもとに招待された時はアンは一人で飛行機で往復することもできた。

アン・ランスキーが基本的なケアや人間とのかかわりさえあれば普通に暮らせていたかもしれないという思いは、母にとってかわった女に対するポールの敵意をより強いものにしていた。

タコマに来るときランスキーは決してテディを連れてこなかった。

エドナは思い出す。
「テディが歓迎されていないことは暗黙の了解だった。」

マイヤー・ランスキーの三者三様に育った子供たちに共通項があるとすれば継母を嫌う気持ちだった。

「テディが野蛮でやかましくてけばけばしいということで意見は一致していたのだ。

問題は、ポール・ランスキーが継母のことをどうこう言えないほど似たようなものだったことだ。

年を取るほどに、親を頼らないという立派な志はいつしかしみったれているという印象を与えるほどになっていた。

「私がスーパーで買ってきたものを確認して、ハインツのケチャップを買っていると怒られた。『プライベートブランドのを買うんだ!ハインツは3セント高いだろう』と。」

娘のマイラも思い出す。
「どこか病的になっていった。洗濯にかかるお金を抑えるために、母に毎日新しいドレスでなく制服を着るように言うようになった。」

ポールは新車を買うことを拒んでボロボロになったフォード・ファルコンに乗り続け、その様は妻子を恥ずかしがらせた。

エドナは不動産売買で稼いだ貯金で4年物の中古のキャデラック、59年モデルのエルドラドを購入した。黄色と銀メッキの目立つ車だった。

似たような車に乗った黒人の家族とすれ違ったとき、ポールは苦虫を噛み潰したようにエドナに「ほら、お前のキャデラックだぞ。」と言ったという。

ポールとエドナ・ランスキーの間にはだんだんと溝ができ始めていた。

その理由の一つにはエドナが軍の仕事をやめるようポールにお願いしていたことがあった。

度重なる転居に彼女は疲れていた。

1960年代のはじめに彼女は家と赤ちゃんをアナーバーからワシントン、ボストン、そしてフロリダに数ヶ月、またワシントンへ戻り—というように8年間で7回もの引っ越しを繰り返していた。

流産してしまったのもそうした落ち着かない生活の中だった。

1962年。ポールは単身でベトナムに一年間派遣された。

ケネディ政権によってサイゴンに派遣されたアメリカの「アドバイザー」の第一陣の一人で、その任務が終わるとエドナの希望通り次の任期を辞退した。

ワシントン州で一般市民として暮らすようになり、まずは材木会社で、その後はボーイング社でアポロ宇宙プログラムチームのエンジニアとして雇用された。

ポールの得意分野は経費削減だった。

材木会社では暖炉に置く人工の薪に廃材のおがくずを詰めるための効率的で統一された方法を考え出した。

機密性の高い情報の取り扱いが許可されていたボーイングでは月面プログラムに使用される部品のデザインや価格設定に携わった。

エドナは夫が仕事の経費削減を家庭に持ち込みすぎていると感じた。

また、仕事の持ち帰りも多かった。

ポールは週末まるまる書斎に閉じこもり、部屋を施錠したままでてこないこともしばしばだった。

エドナが声をかけようが、7歳の息子が呼びかけようが変わらなかった。

「部屋には入れない。諦めなさい。」
一緒に遊ぼうとドアを叩いて懇談していたマイヤー・ランスキー2世は、父がそう声を荒げるのをドア越しに聞いたことを覚えている。

こうしたポールの冷酷な父親としてのモデルがランスキーだったとは言えない。

マイヤー・ランスキーは子供たちと遊ぶこともあったからだ。

「家族の大切さを信じていた。」
バディ・ランスキーはそう語る。

ジャージー海岸での夏休みや、ニューヨークでのクリスマス。ニューヨークではロックフェラー・プラザのスケーター達を見学して、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールに連れて行ってくれた。

マイヤー・ランスキーはベンジャミン・スポック医師が提唱するような親の手本ではなかったにせよ、家族と過ごす時間を大切にし、メリハリやイベントを重んじる父だった。

その一方で多くのことを周りから隠すという点ではポールは父親からしっかりと受け継いでいるようだった。

ワシントンはタコマの自宅でポールは周りから自分を切り離すことで安心するようで、それは自身が小さい頃に家族が一番重要なことについて話し合わず、うやむやにしていた様子を映し出すようでもあった。

ポールは妻のエドナに対して不満やすれ違い、怒りなどをため込んでいたが、それらの対処の見本はアンに対処した父であった。

マイヤーが黙って夜に一人で出かけて行ったように、ポール・ランスキーは書斎に閉じこもって鍵をかけるのだった。

やがてその書斎に簡易ベッドが運び込まれ、ポールの服と、テレビも設置された。

ポールは机を愛おしそうに撫でては「僕の友人」と呼んでいたが、もはや書斎が仕事のために存在しているなどという建前は通用しなかった。

それは元アメリカ空軍キャプテンの孤独で遮断された生き方の基礎になっていった。

ポール・ランスキーが家族と楽しむ数少ない趣味の一つは、ウエスト・ポイントのマーチ音楽を蓄音機で大音量でかけることだ。

ポールは部屋の中央に立ち、士官候補生だった50年代初頭に父が誇らしげに自分のパレードを見学していたころを思い出すのだった。

父親と遊べることに大喜びした2歳か3歳の小さなマイラはポールの周りを行進し、敬礼したり、膝を高く上げたりするのだった。

「何時間も行進したわ」とマイラは思い出す。
「母にもうやめなさいと言われるまで。」

エドナ・ランスキーにとってこうした生活は奇妙ではあるものの、耐えがたくはなかった。

不動産の仕事に加えて持っていた投資会社はポールと共同経営で、パイロットだった頃のコールサインにちなんで、ランサー・インベストメントという会社名だった。

子供たちはいい学校に通い、タコマの一番高級な住宅街であるノース・エンドの閑静な場所に家も持っていた。

おじいちゃんは遊びに来るたびに感嘆して頭を振ったものだった。

「なんて素晴らしい家だ!」

エドナのおかげで息子や孫たちに素晴らしい暮らしを送ることができるのだと、マイヤーは義理の娘に感謝していたのだ。

ところがある日、エドナは銀行口座からの引き出しに気づいた。

「50ドル、50ドル、50ドル。現金、現金、現金…」エドナは言う。「週に2,3回、50ドルが引き出されていた。」

「昼食代だ。」ポールは弁解した。

「50ドルで?」エドナは聞き返した。彼女や子供との外食にポールが50ドルもかけたことがあっただろうか?

また日によって2、3時間遅く帰宅することにも気づくようになった。

ポールは説明した。「モールで抽選があって、全部のところで家族の名前をエントリーしていたんだ。」

1965年のある日、エドナはマイラを妊娠中に自室で休んでいた。

部屋から出ると、妻が家にいることを知らなかったポールが驚いた様子でこう口走った。

「ああ!ピーチ、君か。」

「ピーチ?」急に疑り深くなってエドナは問い返した。「ピーチって誰の事?」

ポールは赤くなり、口ごもりながら部屋へ入って行った。

ポール・ランスキーには書斎に閉じこもる以外の秘密の時間があるらしいことを妻は知った。

ある日夫婦が買い物をしていると、ポールは急に興奮した様子でその頃タコマのマッコードやフォート・ルイス基地付近に出店するようになっていた日本人の経営するマッサージ屋の一つにエドナを連れて行った。

「こんなに小さな部屋がたくさんあるんだよ。」初めてではないらしいポールはそう言いながらエドナを店の奥まで連れて行った。

そこでは女の子の店員が従順そうにお辞儀をしたり微笑んだりしていた。

エドナは唐突にこの数年間何が起きていたのかを理解した。おそらくは夫がベトナムから戻ってきてからずっと。。

そのことを夫に問い詰めると、白状した。

「おじいちゃん、」エドナはフロリダのランスキーに長距離電話で泣きついた
。「問題があるの。…こっちに来てもらえないかしら。電話では話したくないの。」

ランスキーは数時間のうちにタコマに到着。

ポールとエドナは子供たちと離れて話せるウィンスロップでランスキーと会った。

「どうしたんだ?」ランスキーが聞いた。

「それがね…」エドナが言いかけて、泣き崩れた。

「いや、僕が話すよ。」ポールはそう言って、事の次第を父親に話した。

その時の義父の表情をエドナは忘れられなかった。

「顎が外れたようになって、凍り付いたようだった…棺桶の中にいてもあそこまで真っ青じゃないというくらい。申し訳ない気持ちになったわ。ああ、なぜ彼にこんな仕打ちを与えたんだろう、と。足元の基礎を崩してしまったような感じだった。」

そしてマイヤー・ランスキーは怒った。

「物静かな人だったし、声を荒げることもなかった。でもタガが外れていた。目線で殺しそうな勢いだった。…ポールは怯えていた。ガタガタ震えながら父親の前でブリキの兵隊みたいに立って、『はい!はい!畏まりました!』って。こっぴどく叱られていたわ。二度とごめんだと思うくらいにね。」

ランスキーはその後ウィンスロップに数日滞在し、皆が落ち着くのを待った。

エドナとポールが空港に見送りに来ると、飛行機に向かって歩いていたランスキーが振り向き、カエルを睨む蛇のように次男を見据えた。

マイヤーランスキー
マイヤーランスキー

しっかりやれ!「家族を大事にしろ!

バディ・ランスキーは言う。
「僕たちは全員、父を傷つけた。一人残らず。『自分は完璧な子供だった』と言える人は誰もいない。まず僕は完璧からほど遠かったし、サンドラも。ポールはポールで…」

アネットはランスキーのことをこう語る。

「彼はいい父親であろうと努力していた。頑張っていた事に間違いはないけれども…ただ、家族の誰一人、家族というもののあり方を知らなかったのだと思う。」

USスチールよりもビッグ

1962年5月、マイヤーは心臓の問題で療養していた。

ニューヨークのトラファルガー病院を退院したばかりで近くのヴォルニ―・ホテルに滞在しており、見舞いに来るテディや友人達と喋りながら過ごすのが日課だった。

FBIはその一字一句を漏らさず聞いていた。

J・エドガー・フーバーは5年前のアパラチン会合の時から組織的犯罪に対する考え方を変えていた。

会合で疑いようもなく明らかになったのは、大都市の犯罪シンジケートは州をまたいだある程度の連携をもっているということだった。

それはエステス・キーフォーヴァーの想像した「秘密政府」のような中央集権的なものではないかもしれないが、犯罪を計画的に行い、多くの州で公務員を買収する男たちの集団であることはわかっていた。

すっかりFBIの標的となった彼らはフーバーの徹底した調べを受けることになったのだった。

「マイヤー・ランスキーは全国の犯罪における非常に重要な人物である。」

FBI長官のフーバーはマイアミやニューヨークの」支部にそう伝達した。

「調査のためには極端な手段もとることを検討せよ。」と。

1950年代の終わり頃、FBIが今更のように犯罪組織やギャンブラーたちに向けた「極端な調査手段」とはもともと冷戦中にロシアのスパイや共産主義の侵入者たちに向けて開発されたものだった。

FBIエージェントの中には、家屋やオフィスに侵入したり書類を盗んだり複製したり、電話に盗聴器を仕掛けたり隠しマイクを設置したりなどの業務が日常茶飯事であるという世代が存在していたのだ。

それらは正式な令状や裁判所命令もなしに行われていたため、もしそうした活動の最中に捕まることがあればフーバーを始めとする上層部には関わりを否認されることも承知していた。

ニューヨークのFBIはもう少しおとなしい監視が主流だった。

エージェント達は主だったホテルに働きかけ、特定の部屋やスイートに隠しマイクを常設してもらった。

そして捜査局が盗聴したいと思っている客が宿泊する際にはそれらの「サウンド・スタジオ」をその客に割り当てるのだ。

東74番ストリートのヴォルニ―・ホテルにはそのような契約はそんざいしなかった。

ランスキー家がそこを選んだのはトラファルガー病院からアクセスが良かったからで、ホテルそのものは小さくやや不便な場所にあった。

それでもホテルのマネージャー陣はFBIに協力的で、1962年の春にはランスキーが部屋で話す内容が盗聴されるようになった。

ヴォルニ―・ホテルの8E号室で1962年の晩春に取られた盗聴記録はほとんどが個人的な話で、あまり犯罪に関する内容は得られなかった。

ある書き取りの原稿によるとマイヤーは当時、歴史書に文法本、フランス語の
引用文集を同時に読んでいたという。

「学歴がないからこういうものが必要なんだ、頭の中がごちゃごちゃだからね、と言っていた。」

食材はマッツァー、イワシ、ゼリー、アイリッシュ・ラム・シチュー、それにハムなどが好きなようだった。

マイヤーは時折哲学的なことも口にした。

マイヤーランスキー
マイヤーランスキー

一生、いい奴にならない奴もいる。
四分の一はいい奴だ。四分の三は悪い奴。分が悪いんだよ、三対一じゃ…

盗聴について話し合う場面もあった。規制に関する法律が当時可決待ちだったが、テディ・ランスキーの考えでは盗聴は「共産主義者に対しては有り」、ただし対象者がそれ以外の場合は「反吐が出る」ということだった。

彼女の意見では、1960年以降組織的犯罪を取り締まろうとしていたケネディ大統領と司法長官であった弟のロバートは「良心に従って行動している」のだった。

ランスキーは同感ではない。

マイヤーランスキー
マイヤーランスキー

悪事を働く側に育ってしまったからそう思うのだ

よくランスキーは自分や友人、知り合いの体調不良について長々と話した。

みんな歯痛や松葉杖、リューマチ、心臓病…誰もが何かしらの病気を抱えているようだったが、ランスキーは自分が特に苦しんでいると主張していた。

生きていくだけの金を稼ぐのは「身を削るようなものだ」で、「何も努力せずに手に入る」人たちはなんて恵まれているのだろう、と。

1962年の5月27日、日曜の晩のことだった。

テレビをつけているとデヴィッド・サスキンドがでてきて、「オープン・エンド」という番組を司会し始めた。

それは組織的犯罪についてのドキュメンタリー番組で、後半は専門家パネルによる討論だった。

パネリストには最近その分野についての読本を編集したガス・タイラーや、ワシントン州検事のエドワード・ベネット・ウィリアムズなどがいた。

FBIの報告書によると、ランスキーはじっと討論に耳を傾け、あるときパネリストの一人が「…組織的犯罪は政府に次ぐ規模のものだと述べた。するとランスキーは妻に向かって、組織的犯罪はUSスチールよりもビッグだ、と言った。

このコメントの音声は記録に残っていない。

マイク盗聴を行うエージェントたちは録音されたテープを聞くとそれを文字に起こし、テープは機械に戻して何度も録音の上書きを繰り返すのが普通だった。

盗聴器の目的は情報を集めることであり、証拠収集ではなかったからだ。

1962年5月27日のマイク盗聴報告書にもこのランスキーのコメントは引用されていない。

テープ起こしの際に一字一句を正確に起こすのか、要約するのかはエージェントの判断によって決められた。

マイヤー・ランスキーが妻に語ったその言葉に関しては、エージェントは要約することを選んだようだった。

にも関わらず、ランスキーのコメントが何らかの経路でリークして公になった5年後にはまるで直接の引用句として扱われていた。

そしてわずかに改変されていた。

「俺たちはUSスチールよりもビッグなんだ。」と。

ライフ誌は1967年9月、このコメントをマイヤー・ランスキーのものとして掲載した。

2年後の1969年8月にはタイム誌が「犯罪コングロマリット」にまつわる7ページの特集を組み、その中で同じランスキーの「自慢」を引用した。

さらに5年後、映画館で「ゴッドファーザー2」を観ていた世界中の観客がマイヤー・ランスキーをモデルとするハイマン・ロスのキャラクターがこう囁くのを聞いた。「マイケル、俺たちはUSスチールよりもビッグなんだ。」

活字にされてからというもの、自分のトレードマークのようになってしまったこのフレーズをマイヤー・ランスキーは自分のものと認めなかった。

マイヤーランスキー
マイヤーランスキー

一体いつそんなことを言ったと言うんだ?

マイヤー・ランスキーは歴諸学を愛していた。

ブック・オブ・ザ・マンスの伝記ものが届くと嬉しそうに開き、辞書を片手に読み進めるのだった。

新しい知識をインプットすることは楽しく、一方でランスキーは小説などは読まなかった。

フィクション作品は見下すところがあったのだ。

歴史こそ、事実の伝達こそが真実だ、とバディによく言い聞かせていた。

ところが自身が歴史の一部になるにつれて、ランスキーは事実が捻じ曲げられたり、美化されたりすることもあるのだと知った。

フラミンゴのその後

1960年の春、マイヤーランスキーは古い投資先に利益が生じていることを発見した。

それはバグジー・シーゲルとの昔のラス・ベガスのベンチャー、フラミンゴ・ホテル・カジノだった。

ランスキーはもともとあまりフラミンゴの経営に積極的に関わっていなかった。

ラスベガスを訪ねることは稀で、最後に行ったのは1956年だった。

1950年代の終わり、ランスキーの納税申告書にはネバダ・プロジェクト・コーポレーションの長期保有株の少額利息が記載されており、1958年にはマイヤーは資本損失として株を売却したとある。

つまり1947年のバグジーの死以来、フラミンゴは毎年立派な営業利益を計上していたのである。

もちろん、ランスキーはその取り分を何らかの形で現金で受け取っていたと考えられる。

フラミンゴのオーナーや表看板となるパートナーは年月とともに入れ替わっていた。

1960年には、ハバナのリヴィエラの内装を提供したパーヴィン・ドアマン社の社長、アルバート・ドアマンや、俳優にしてハバナのヒーロー、ジョージ・ラフト、歌手のトニー・マーティンが、フラミンゴを売却をした時のオーナーとして記録されている。

1960年5月にフラミンゴは1,060万ドルで3人のマイアミ・ビーチのホテル経営者、サム・コーエン、モリス・ランスバーグ、そしてダニエル・リフターによって買収された。

マイヤー・ランスキーの名前は売買の書類には記されていなかったものの、売り手と買い手を繋いだのは彼だ。

アルバート・パーヴィンがフラミンゴを手放したいとランスキーに相談すると、彼はマイアミのホテル経営者、とりわけモリス・ランスバーグがラスベガスに足がかりを求めていることを知っていた。

仲介料としてランスキーは2%にあたる20万ドルを受け取った。

ラスベガスのカジノではこうしたやり取りが現金でひそかに行われることが習わしだった。

内国歳入庁に税金を納めることに関しては、ネバダはまるでアメリカの一部ではないかのように振舞った。

だがあくまで合法的に公開されたフラミンゴの売却に際して、ランスキーは「公開用の」金を確保する機会を逃さなかった。

ハバナ・リヴィエラの「レストラン兼キャバレーマネージャー」として申告していた年間36,000ドルの「給与」はホテルが差し押さえられた際に支給されなくなっていた。

そこで代わりにフラミンゴの仲介料を32分割し、四半期ごとに6,250ドルずつ申告することをマイヤーは思いつき、まず最初に四クオーター分の25,000ドルを1961年分として申告したのだった。

1960年代前半、ランスキーは生計の証明として年間35,000ドル程度の収入を申告する必要があったということになる。

1951年、エステス・キーフォーヴァーが彼の結成した上院議員委員会が尻尾を掴んだ犯罪者たちをもっと追及するよう政府に求めて以来、内国歳入庁はマイヤー・ランスキーの税申告を特に念入りにチェックしていた。

情報局はランスキーの家や車、家族イベントなどを細かく分析し、さまざまな数字をはじき出し、本当の収入と支出の予想、「純資産分析」を割り出す。

これをランスキーの申告した収入と比較し、申告漏れ、ひいては脱税の証拠をつかむことが目的だった。

1953年、内国歳入庁はランスキーに対して25万ドル弱の「危険性評価」を下しており、それは計算によると1944年から1947年にかけてマイヤーが納入すべきでありながら納めていない税金にまつわるものだった。

ランスキーは詳細な数字で反論し、1944年1月1日までにギャンブル事業で得た現金収入が15万ドルに上るという宣誓供述書も提示した。

モーゼス・ポラコフと協力し、危険性評価のアセスメントは1956年、9,000ドルの支払いで取り下げとなったが、以後ランスキーは収入の申告により気を配るようになったのだった。

毎年、ランスキーの提出する申告書を歳入庁は念入りに分析した。

そして毎年のように当てが外れた。

マイヤー・ランスキーは比較的質素な暮らしを好んだからだ。

外食は多かったし、衣類は上質なものを好んだ。

だがそれ以外は「悪党」と呼ばれ目を付けられていた他のものと比べて派手な趣味が全くなかった。

ハランデールではランスキーとテディは実用的なシボレーを運転し、それも地元のリース業者で長期契約したありふれたものだった。

彼らの住む家も質素そのものだった。

ハランデールのハイビスカス・ドライブ612番の背の低い平屋はゴールデン・アイルズというブロワード/デイドの郡境界近くの住宅開発地帯の一角にあった。

家はアネット・ランスキーが言うところの「クラッカーの空き箱」よりは少し大きかったが、概ね似たようなものだった。

マイアミ・ビーチとフォート・ローダーデールの間には、茶色い水路を背に建つこうしたコンクリート・ブロックの戸建てが何万軒も存在。

ランスキーとテディが家を1959年に新築で購入した時の価格は49,000ドルで、34,000ドルのローンがあった。

その家はマイヤー・ランスキーにとって初めての持ち家だった。

そしてキューバでの事業が水の泡となるのを見守っていたランスキーにとっては保険であり、慰めでもあった。

カストロの来臨まではハバナがランスキー家の本拠地だった。

ランスキーにはリヴィエラのスイートがあったし、テディは近くのアパートメントにアメリカからの家具を運び込んでそこで暮らしていた。

フロリダへ戻ってくるとハリウッドのサウス・オーシャン・ドライブのタスカニーに滞在。

アメリカにおける住所と言えばこのホテルくらいだった。

テディはゴールデン・アイルズの小さな家をこよなく愛し、自分流に内装をカスタムすることに情熱を注いだ。

ベージュにブルー、ラベンダーがテーマだったとアネット・ランスキーは思い出す。

「もちろん、定価で購入されたものはなかったわ。セール品でなければ話にもならなかった。」

監視の下見にハイビスカス・ドライブを訪れたFBIエージェントたちは首を傾げた。

ランスキー家は行き止まりの道にあった。

そこには裏道もなく、家の後ろから脱出しようと思ったら水路で逃げるしかなかった。

一帯では最初の頃に建てられた家の一つであったため、今のところはほぼ孤立した形で細長い人工の地形の上に建っていた。

これではエージェントが監視を敷くにしても目立ってしまうし、もう少し住宅が周りに建つのを待つしかなさそうだった。

一方で家から行き来するのに使用できる道は一本しかなく、「ゴールデン・アイルズ」はクリスマスの大きな幹から枝分かれする道のような構成だった。

ランスキーがボートで移動でもしない限り、中央の大通りに車を一台停めさえすれば彼の行き来も訪問者の有無も全てモニターできるというわけだ。

もしこの男が全国区の犯罪組織のドンだとしたら、あの家で運営の会議を開くということはないだろうとFBIは考えた。

だがFBIのマイアミ支部にはランスキーが犯罪者組織のボスであることを疑う者もいた。

ワシントンからはランスキーを優先的に調査するよう言い渡されていたが、フロリダのエージェントの一部はギャンブルと組織的犯罪を安直に結びつける思考に否定的だった。

心臓専門病院に足を引きずりながら通うランスキーの後をつけるのは捜査局の予算の無駄にも思えた。

「マイアミ地域にはもっと重要で活動の盛んな悪党がいます。」
これがマイアミから本部に1961年の2月、伝達された内容だった。

ランスキーは明らかに病に蝕まれており、活動も鈍いようだった。

それまでの調査では「マイヤー・ランスキーがFBIの調査管轄における連邦法の違反を犯した証拠はなかった。」

J・エドガー・フーバーは異論を受け付ける気はなかった。

「ランスキーは調査対象として外すことはできない」と大文字のテレタイプで彼は訴えた。

「この重要性を軽視してはならない…捜査局としては、強硬かつ詳細な調査を望む」

そのうえでフーバーはマイアミに「高機密情報源」—FBI用語で盗聴器—を使用せよと推奨した。

マイアミは反論しなかった。

エンジニアたちは仕事に取りかかり、マイヤーとテディがしばらく留守にすると確信できるタイミングでハイビスカス・ドライブ612番に侵入して内部を調べた。

電話機やランスキーの机の位置を記録し、訪問客を接待するであろう部屋などを予想した。

「『高機密情報源』の設置は続行中。但し、技術的な問題が大きい。」マイアミは1962年5月25日にワシントンへそう伝達した。

技術的な問題で手こずっていた設置班がようやく成功を発表したのは1962年6月の12日だった。

ニューヨークのヴォルニ―に滞在していたランスキーとテディがマイアミ空港に到着したわずか数時間前のことだった。

「フロリダ、ハランデール、ゴールデン・アイルズ、ハイビスカス・ドライブ612番の対象者の自宅書斎に午後1:00、マイク盗聴器設置完了」

誇らしげな完了報告の文面だった。

一ヶ月後、二つ目の「機密情報源」が自宅内に設置されたことが報告された。

その報告書を見るだけでは、FBIの男たちが盗聴器設置のためにいかにして最低二回もランスキー家に入り込んだのかを知ることはできないが、ランスキーがセキュリティに無頓着であったことは確かなようだ。

翌3月、ランスキーは地元の警察に自宅からテレビ、ジュエリー、テディの毛皮のコートと250ドルの現金が盗難されたと届け出た。

強盗はランスキーとテディが遅い日曜日の夕飯を外でとっていた隙にスライド式のパティオ扉をこじ開けて入ったらしい。

見かけだけで言えば、マイヤー・ランスキーはフロリダ中にいるありふれた60代の退職者だった。

のんびり日々を過ごし、テディの息子のリチャード・シュワルツの子供たちを含む孫たちとも良く遊んだ。

見張りのFBIエージェントは家の裏で腰かけて長時間釣りを楽しむマイヤーを度々見ている。

一方家の中の盗聴器は夫婦喧嘩以上くらいしか捉えなかった。

「62年12月22日:夜遅くマイヤーとテディがまた口論…」

「家が潰れたって構わない」とランスキーがテディに叫ぶ声が録音されていた。

「その前に俺の世話をちゃんとしろ!」

ランスキーは通常、一日の初めにタスカニーや近所のディプロマット・ホテルのコーヒー・ショップを訪れた。

そこで弟のジェイクや友人のジミー・アロたちと喋り、午後になると競馬をしにガルフストリームへ流れたり、ある時はビル・シムズのハリウッド・ケネル・クラブでレースドッグにわずかな額を賭けたりした。

そこでランスキーが時々行動を共にしていたベンジャミン・シーゲルバウムという男がいた。

背が低くずんぐりとした彼は給電産業や地元の不動産で財を築いていた。

ラスカル・ハウスの土地をウルフィ・コーエンに売ったのも彼だった。

シーゲルバウムは1940年代にブロワードのギャンブル・ジョイントに関わっていたこともあり、数字や確率を得意としていた。

ランスキーとはハバナのリヴィエラで出会い、シーゲルバウムがリヴィエラに投資していたとする意見もある。

もったいぶった性格で、金のメダル飾りや体型に似合わないジャンプスーツをを好んで身につける彼は仲間内の中でも異色だったと言える。

ランスキーは心臓の不調で療養しつつ軽い運動を始め、既にクラブでなくなり誰でも使用できるようになったハリウッド・カントリー・クラブでのんびりゴルフを楽しんだりした。

ある時ランスキーの見張り任務についたFBIエージェントは彼がスイングを真剣に練習しいるのを目撃している。

日常的に自分たちの歩く道の先に佇んだり、自分たちの車の後ろを走っていたりする、ランスキー家の生活の一部となりつつあるこうした男たちと対峙する機会に恵まれると、テディは怒りを隠そうともしなかった。

ある日直接ランスキーを訪ねて来たエージェントに「残念なこと」だとテディは言った。

FBIがランスキーの友人たちにまで迷惑をかけたり、あちこち鼻を突っ込んで嗅ぎ回っていることが夫にとっては「面子を潰される」ことだと。

そして夫は「潔白であり、何も隠すようなことはない」とも。

ランスキーはもう少しプロフェッショナルに、仕事について話すことを避けつつも、直接自分が関わらない内容の質問には詳細に、正直に答えた。

わざわざ出向いてきて長時間待つ手間を省くためにも、エージェントたちはランスキーの居場所を確認する通称「口実電話」をかけることもあった。

そうした時にはランスキーが電話口に出て、その対応は「フレンドリー」で「親切」だったとされる。

遠出をする予定があればランスキー本人か弁護士からマイアミのFBIオフィスにそのことを伝える電話を入れた。

ポール一家を訪ねに行くときはシアトル―タコマ空港に、あるいはピーター・ベント・ブリガム病院に行くときはボストンに到着すると、すでにランスキーを「影」が待ち構えているのを彼は皮肉気味にジョークとして語るのだった。

悪名高いクライアントが近いうちに診療に訪ねてくることをシーモア・グレイに伝えるのはFBIだった。

「FBIから電話がかかってきて、『ランスキーがそろそろ来るぞ』と言うんだ。」とグレイ医師は思い出す。

「秘書のエイリーンに確認すると、彼女はこう言う。『ええ、〇日に予約が入っています』と。」

ある時グレイはランスキーに聞いた。「なぜ彼らは君のことにこんなに詳しいんだ?」

ランスキーは答えた。
「奴らは全て知っているんだよ。」

おどけたような答え方だったが、ランスキーの潰瘍を長年診てきたシーモア・グレイはその裏に感じられる苦々しさに残念な気持ちになるのだった。

ヴィンセント・アロは友人でご近所さんのマイヤー・ランスキーに似たところがあった。

もう半分隠居気分で、ハリウッドのマイヤー達の自宅より1マイルほど北にもう少し広く、もう少し開けた湖のそばに建つ家を持っていた。

ジミー・ブルーアイズは自身のキャリアの始まりであったストリート犯罪や暴力から距離を置いて、のんびりした暮らしを楽しんでいた。

ジミーは1920年代に武装強盗の罪でシンシンに数年収監されていたが、有罪であることを否定したことはなかった。

のみならず、仲間内でジミー・アロは若い頃の銀行強盗の武勇伝を自慢することもあった。

ランスキーより2歳年下のジミー・アロは、先輩よりも数インチ背が高かった。

やせた顔はどこか修道士のようで、頬はこけて鼻の骨が尖っていたし、青い目には人を射貫くような力があった。

「ゴッドファーザー2」のジミー・アロのキャラクターは母音を巧みに入れ替えたジョニー・オラという名前だったが、ハイマン・ロスの寡黙で不穏なイタリア人ボディガードのジョニー・オラはあまり現実のジミー・アロに似ていなかった。

少なくともジミーを知る友人の目から見れば、だ。

アロは慎重で、趣味も読書などランスキーのようにどこかインテリ好みなところがあった。

バディ・ランスキーの記憶の中のアロは「独学で知識をたくさん身につけた人」だった。

「読書家で何でも知っていて、世界政治の話もできるけれどとにかく感じのいい人だった。」

ランスキー同様ジミー・ブルーアイズはどこかまだタフなオーラを纏っていたが、年を重ねて聡明さや優しささえ漂うようになり、そのためかアドバイスを求める人が寄ってくることも多かった。

牧師のような雰囲気だったと言ってもいい。

映画ディレクターのジョン・ヒューストンが1960年代半ばにローマで初めてジミー・アロに会った時はすっかり魅入られてしまい、何時間も共に過ごした。

その時ヒューストンはアロと数名のパートナーが投資していたディノ・デ・ラウレンティスの大作「天地創造」を撮影しており、アロに神の役を引き受けてほしいと訴えたヒューストンはなまじ冗談で言っているばかりではなかった。

ランスキーもジミーも、二人の友情が非常に古いという点では意見が一致したが、あまりに昔のことなのできっかけについては見解の違いがあった。

仕事を一緒にするようになったのは1930年代で、ポテト・カウフマンがジミーと関係者たちをブロワード郡のギャンブルに引き込んだ時だった。

そこから二人は共に仕事をし、1950年に全てが閉鎖されるとジミーは有罪を認めてランスキーやジェイクと同様にギャンブルの罰金を支払った。

またジミー・アロは何人かのニューヨークの仲間と共にハバナのリヴィエラにも投資しており、遡るとラスベガスのフラミンゴの株も所有していた。

ランスキーのイタリア人パートナーとしては最後の一人だったが、それはルチアーノやアドニス、コステロらよりも目立たないように生きてきたからであり、それゆえ長く活躍することができたのだった。

その点でもランスキーとは似ていた。

ジミー・ブルーアイズはランスキーのギャンブルの専門性と、ニューヨークやニュー・ジャージの労働や建設系のゆすり業をつなぐ架け橋ともなった。

1960年代初頭にはチームのように連携することも多かったという。

組織的犯罪の研究は科学とゴシップと神学が混ざったような状態のまま、アパラチン会議の後から発展していった。

その中で専門家たちはジミー・ブルーアイズとマイヤー・ランスキーの関係を定義づけようと試みてきた。

ヴィンセント・アロはヴィト・ジェノヴェーゼ犯罪ファミリーのカポ、すなわちキャプテンであった。

一方のランスキーはユダヤ人で、そのためコーサ・ノストラのメンバーとして認められることはあり得なかった。

その頃ジョゼフ・バラキの告白のおかげでFBIはマフィアよりもラ・コーサ・コストラ(LCN)の呼称を好んで用いていたので、ランスキーは「LCN関係者」と定義されていた。

上院常設調査小委員会の前で1963年の9月と10月に証言したジョゼフ・バラキキ、12年前にエステス・キーフォーヴァーが信じようとしなかったことを明らかにした。

それは外部がマフィアと呼ぶ組織の者たちが、自分たちの属する集団をそうは呼ばないという事実だった。

「我々は『コーサ・ノストラ』と言います。」とバラキは委員会長のジョン・マックレランに説明した。

コーサ・ノストラは直訳すると「我々の物/やり方」という意味になる。

それは組織的犯罪が企業のような体系を持ったものというよりは、生き方の一種であることがより伝わる呼称だった。

とはいえ、ジョゼフ・バラキはニューヨークのイタリア人犯罪団の一つに属する、マイナーな人物に過ぎなかった。

彼の証言の価値は実際に犯罪団の中で活動した経験があるという点にあり、他の地域の犯罪についての知識は乏しかった。

例えばシカゴではカポネの後継者たちはコーサ・ノストラでもマフィアでもなく、アウトフィットという名前を使っていたことについて。

「彼はしがない乞食のような存在だ。」ジミー・ブルーアイズはバラキについてそう言ったと言う。

「バラキは私の足元の土に過ぎない。」

ヴァラチのチンピラとしての経歴は完璧だったが、自分の語る話が嘘か真か見抜く術のない聴衆に恵まれたワイズガイが誰でもそうするであるように、話を誇張したいという思いを抑えられなかった。

彼の伝記である「バラキ・ペーパーズ」は1968年にピーター・マーズによって執筆された。

その中では1931年にラッキー・ルチアーノが「全国の40人ものコサ・ノストラのリーダー達を一掃」した話が語られていた。
それも、たった一日の出来事として。

バラキが「マフィア」の呼び名を斬り捨てたことはJ・エドガー・フーバーにとっては有難かった。

長年、麻薬取締局のハリー・アンスリンガーとそのような名前の組織が実在するのかで対立していたフーバーは、速やかにラ・コーサ・ノストラを国の脅威だとして宣言した。

ただ、「ラ・コーサ・ノストラ」はFBIが勝手に確立させた呼び名であった。

ヴァラチは「コーサ・ノストラ」と言ったはずだ。

FBIは結局、「ザ」をつけた事実上の架空の団体の追及に心血を注ぐことになるのだった。

更にFBIや警察団体は犯罪情報データを巨大な写真入り組織図としてまとめることで人々に強烈に印象付けた。

これらの表は大都市における犯罪のデータを見やすく表現するという点で有意義だったが、警察の中に流れる官僚的で軍事的な考えを反映してか、どの人物にもランクが付与されていた。

実際の犯罪活動は混沌として流動的で、起業家精神に基づいたものであるにも関わらず。

「上院議員、我々は給与は受け取っていないのですよ。」

ジョゼフ・バラキ、犯罪ファミリーの一員であるということは雇われているというよりも商業組合に属しているのに近いのだと、サウス・ダコタのカール・ムント上院議員に説明しようと試みた。

「そうだとしても、分け前があるだろう。」とムントは食い下がる。

「何もないのです。」
ヴァラチは繰り返した。
「自分で稼いだ分だけです。理解できますか?」

ジミー・アロとマイヤー・ランスキーは、その点ではバラキと共通していた。

起業家であり、企業の構成員ではないのだ。

さまざまな関係筋や、コネや、義理のある関係はあった—以前仕事をしたパートナーや、投資先を探している知り合いなど—。

だが、チャンスを掴むのは自分だった。

ネバダで合法ギャンブルが浸透するにつれて、ジミーはラスベガスにそのチャンスの多くを見つけた。

ニューヨークの元手をいくつかのベガスのカジノにつぎ込み、その中にはフラミンゴよりも1/4マイルほど街寄りに1952年にストリップに建設されたサンズがあった。

サンズ・ホテル・カジノの代表者はジェック・アントラッタ―という、初めはストーク・クラブでドアマンをやった後にコパカバーナのメートルドテルにまで昇進した男だった。

だが1960年代初めのある日、サンズに仕事で来ていたアントラッターの知り合いはホテル幹部の力関係が見た目とは違うことを知った。

ジミー・アロはその日投資先のカジノ・ホテルを視察しにやってきており、アントラッターは、あろうことか100万ドルもかけて完成させたばかりの自分専用のスイートへとアロを案内したのだった。

アントラッターは太い葉巻を咥えたまま、何に何ドルかかったのかを自慢気に説明しながらアロをスイート内で連れ回した。

その後ろにはサンズの運営陣がついてきており、仕立てられたピカピカのスーツを着て得意げにぞろぞろとついて回るその姿はペンギンの群れを思わせた。

ジミー・アロは最初こそ何も言わなかったが、時間と共に目に見えて押し黙り、表情が硬くなってきた。そして突然彼は爆発した。

「お前はウェイター長のままで残しておくべきだった。」とジミーはまくし立てた。

「こんなに何百万ドルも浪費して。でかい葉巻を咥えて2,000ドルもするようなスーツを着て。お仕着せを着た従僕の分際で。元居た場所に戻してやろうか。」

その瞬間のジミー・アロは、銀行強盗をしていたことも事実だったと想像できるような迫力だった。

そしてサンズ・ホテルの真の決定権が誰にあるのか、火を見るよりも明らかになったのだった。

ジャック・アントラッターはサンズの株を12%保有していた。

当時のカジノ風に言えば12ポイント。

ただしそのうち自分のものは2ポイントだけで、残りの10は匿名のままでいることを希望していた投資家の分だった。

例えばアロのように犯罪歴や悪評があれば、それが原因でカジノのゲーミング・ライセンスが取り下げられてしまうことも有り得た—そのためドク・スタチャーは1964年までサンズの大株主だったが、それが陰での話だったように。

とはいえ多くの匿名のパートナーの罪は脱税程度のものだった。

アントラッターの役割としては、自分が代理でポイントを保有しているパートナー達にきちんと取り分が回るよう確約することだった。

1960年代初頭のラスベガスのカジノではスキミング(ピンハネ)が当たり前だった。

毎晩その日の売り上げを計算した後に現金をそこから取るやり方はカーペット・ジョイント時代に完成され、それはシーズン毎の短期のパートナーたちの間で分けられた。

ところが年中営業している、半分企業の形をとるカジノでこの手法は複雑すぎて非現実的だった。

1960年代初め頃のラスベガスの現金スキミングは毎月1ポイントにつき数千ドルを払い出すのが原則だった。

そして年度末に売り上げと、それと別に申告されるカジノの公式な収益額が確定すると、2月か3月に大きめの額が支払われた。

封筒やブリーフケースに札束を詰め込んで運び屋が全国を駆け回るやり方は実に手間がかかり、狙われやすかった。

それよりも匿名のポイント保有者たちがラスベガスを訪れるシステムの方が好まれた。

彼らは投資先のホテルに滞在し、王のようにキャビアやシャンパンの接待を受け、払い出しで受け取るべき額以内のクレジットで遊ぶのだった。

チップを現金化して全て持ち帰る者もいたが、殆どが自分の特権を利用してギャンブルを楽しむのだった。

彼らのほとんどがランスキーとは違ってギャンブル好きな男たちだった。

ベガスに来ないポイント保有者は、高額ギャンブラーから返済される負債金額をそのまま受け取るという手段や、ギャンブル客の団体(ジャンケット)を集め、カジノで遊ばせた上で負けの金額を受け取るやり方も考案された。

また投資者でもある演者の場合はそのホテルでのパフォーマンスを増やしてもらうこともあった。

大人気スターを出演させるにはカジノ側が現金を上乗せしたりギャンブルのクレジットを贈ることも珍しくなかった。

こうした事情から、申告される額もされない額も算出が非常に複雑なものとなった。

さらに厄介なのがポイント保有者が亡くなった時で、それは彼らの年齢や趣味やカルテから考えても珍しい出来事ではなかった。

違法カジノ・シンジケートでは、地下世界の共通ルールに則り、株式が生存しているパートナーの間で分けられるのが普通だった。

死んだパートナーの後継者に渡る分は—その後継者がパートナーの生前からシンジケートで活動していない限りは—なかった。

シンジケートが何より嫌ったのは未亡人や知恵のついた子供が彼らの内部事情に通じてしまうことだった。

その一方で、いいパートナーであった場合はその未亡人に何らかの保障が与えられるべきだという考えもあった。

それは名誉の問題だ。

かくして葉巻の煙の中で開かれる会合は長引き、どうすれば出所を曖昧にしたままで20,000ドルを未亡人に渡すことができるか、知恵が絞られた。

味をしめてもっと要求してきたら?
内国歳入庁に報告されたら?
あるいはこれを非課税の経費として申告する方法はあるだろうか?

運び屋。鞄。靴箱に入れられた現金。ギャンブル集団の行き来。取り分を要求するディーラー。訝しむ内国歳入庁。伸びるスロットマシンの売り上げをどうスキミングすべきか。

1960年代初頭のラスベガスでカジノ・シンジケートの会計を正確に管理することは不可能にも思える仕事だった。

そのようなカジノ・シンジケートを複数監督し、何十人もの投資家やマネージャーやフロント・マンを整理していたジミー・アロの頭には、適材は一人しかいなかった。

このような「代理受取」負債の金額はポイント保有者の受け取り金額よりも大きいことがほとんどだった。

差額は手間賃としてそのまま回収することが認められていたが、返済を成功させられればの話だった。

ラスベガスのカジノでは高額のギャンブラーが負債を交渉のもとに7~8割にまで減らしてもらうこともこっそりと行われていた。

ランスキーはこの仕事にかかわりたいとは思っていなかった。

1958年にアルバート・アナスタシアの暗殺容疑で逮捕・尋問されて以来、人生はトラウマやストレスの連続だったのだ。

自分の活動に熱心な興味を示すFBIに、内国歳入庁。

この状態で違法な活動に携われば何が起きるかは明らかだった。

カジノのスキミングは脱税に直結する行為のため、リスクが高すぎる。

キューバの事業が終わったときに自分は「引退」したのだと話すとき、ランスキーは少なくとも精神的には本心で語っていた。

一方で、業界の中にしか自分の食い扶持はなく、いくら派手好きではないと言ってもある程度の稼ぎは必要だった。

ランスキーが何度かジミー・ブルーアイズに嘆いたように、彼が堅気の仕事に精を出すとなぜか毎回大金を失うのだった。

フロリダのタスカニーやプランテーション・ハーバーなどのホテルの投資は失敗に終わり、コンソリデート・テレビジョンやエンビー配送もつぎ込んだ金は戻ってこなかった。

ラスベガス以外の選択肢があるわけでもなかった。

1961年にはネバダのFBIの盗聴器がその答えを知らせた。

「ランスキーが内訳を見せろと言っている。」そう言いながらエディ・レヴィンソンの事務所に騒々しく入ってきたのはベン・シーゲルバウムだった。

レヴィンソンはハバナ・リヴィエラのカジノの初代マネージャーで、今はラスベガスのフレモント・ホテルを経営していた。

FBIのエージェントたちが聞き耳を立てる中、シーゲルバウムとレヴィンソンはあるカジノスキミング・シンジケートの匿名ポイント保有者たちの名前やあだ名やイニシャルの名簿を読み上げ始めた。

リストのてっぺんにはランスキーの名前があり、その次はイニシャルのJ.Bという人物だった。

FBIはこれが「ジョー・バッターズ」、すなわちシカゴマフィアのボスであるアンソニー・アッカルドのあだ名のイニシャルではないかと推測した。

他にもベン・シーゲルバウムの名前があり、ジョー・アドニスとロンギー・ツイルマンのニュージャージー帝国の後継者であるジェリー・カテナも載っていた。

FBIは大規模なカジノスキム・シンジケートの本部の一つに「高機密情報源」を設置することに成功していた。

フレモントに構えられたエディ・レヴィンソンのオフィスでやり取りに耳をそばだてるうち、大きな金額が肉声で読み上げられると何か巨大なものに感じられることに感心したのだった。

アメリカの反対側のニュー・ジャージーでも、FBIの盗聴器がカテナの配下であるアンジェロ・「ジップ」・デカルロといういかにも悪党風の男の情報を静かに集めていた。

カテナはラスベガスの投資先から月に15万ドルも受け取っているんだ、とデカルロは自慢気に言った後、それでもマイヤー・ランスキーには適わない、と話した。

デカルロによれば、
「ランスキーはラスベガスのほぼ全てのカジノを『一欠け』持っている」ということだった。

どうやらサンズやフラミンゴ、そしてベニー・ビニオンのホースシューからも現金が入ってきているようだった。

フレモントに一旦集められた金は集計され、分配され、全国のポイント保有者のもとに届けられていたのだ。

盗聴器から聞こえてくる個人名をもとにFBIは特定の人物を尾行し始めた。

ベン・シーゲルバウムは分かりやすい運び屋で、ブリーフケースを持ってマイアミとラスベガスを月に2,3回往復する生活を2年以上送っていた。

急がず移動を楽しむタイプのアイダ・デヴァインはフレモントに肉を卸す会社の経営者であり、ポイント保有者でもあるらしいアーヴィング・「ニギ—」・デヴァインの妻だった。

アイダ・デヴァインは飛行機を嫌った。

定期的にラスベガスからマイアミへ現金を10万ドル以上運ぶ彼女は、電車でシカゴやアーカンソーのホット・スプリングスに立ち寄りながら移動するスタイルだった。

線路が北を走るときは毛皮のコートに包まるアイダのことを、FBIの男たちは「ミンクの婦人」と呼ぶようになった。

エージェント達が少しずつ完成させていた全体図の中で、マイヤー・ランスキーは絶対的な権力を持っているように見えた。

ある集まりでは168,000ドルの現金を何度も数え直しては帳簿とあわせる様子が伺われた。

ランスキーが経理報告を要求していたので、何としても正確な数字を出さなければならなかった。

最終的にFBIがまとめたところによると、マイヤー・ランスキーはフレモントを通過する現金が届く匿名ポイント保有者のうち少なくとも42をコントロールしていた。

各ポイントに月あたり2,000ドルが支払われ、月平均はランスキーが設定したようだった。

また1ポイントの購入額—52,500ドル—もランスキーが決めていた。

これに基づいて、マイヤー・ランスキーを通じてラスベガスのカジノ投資から入ってくる金額は220万ドル、現金収入にして100万ドル強だった。

マイアミ北部郊外のランチ・ハウスに住む半隠居の弱った老人にしてはあまりに莫大な数字だ。

実態を確認できないままでいた1963年4月のある日、フレモントのエディ・レヴィンソンの事務所を盗聴していたFBIエージェントたちは吃驚した。

レヴィンソンがニギー・デヴァインに向かって読み上げていたのは、司法省の極秘メモだった。

エージェントでさえ受け取りたてのそのメモは前の週にワシントンで書かれたばかりで、フレモントの盗聴器から得られた情報やそこから発展した尾行などの調査活動がもたらした情報がまとめられていた。

そこには国を横断する「ミンクの婦人」についても言及されていた。

「なんてことだ、ニギ—。」とレヴィンソンは声を上げた。
「奴らはアイダのことも知っている!」

レヴィンソンの驚きは大きかったが、エージェントたち程ではなかった。

彼らはメモを読み上げるレヴィンソンの声に合わせて、自分たちも手に握りしめていたそのメモランダムの字を目で追っていった。

盗聴史における、おそらくは最初で最後の朗読セッションだった。

四日後、フレモントの盗聴器は機能しなくなり、FBIは不法侵入、プライバシーの侵害、憲法上の権利の侵害などで訴えられることになった。

レヴィンソンの敏腕弁護士、ワシントンのエドワード・ベネット・ウィリアムズが訴訟を起こした。

訴訟は複雑化し、さまざまに影響を及ぼしつつも1968年3月に決着した。

政府は盗聴された情報に基づかないスキミング容疑に対するレヴィンソンの不抗争の答弁を認め、彼は罰金の減額を条件に訴訟を取り下げることに合意。

この一件で無法地帯となっていたFBIの不法侵入や盗聴などの手法に注目が集まり、活発な議論や一時的な禁止令を経て1968年の包括的犯罪管理法のもとで限定的な許可なくして使えなくなった。

肝心のメモを誰がリークしたのかということについてはFBIはついぞついぞ知ることがなく、あるいは知っていたとしても明かされていない。

1963年、フレモントのエグゼクティブ事務所へのFBI侵入が発覚したのはマイヤー・ランスキーにとっては幸運な出来事だった。

スキミング業務は唐突にシャットダウンされ、しかもランスキーやベン・シーゲルバウム、アイダ・デヴァインなど盗聴によって名前がリストアップされた面々は起訴から守られていた。

1963年当時、違法な手段で得られた証拠は法廷で認容されていなかった。

この時代のFBIが盗聴器を仕掛けたのは情報を得るためで、そこから確固たる証拠へと繋げて起訴に持ち込むことが目的だった。

フレモントの盗聴器が暴かれた時、捜査局はまだベン・シーゲルバウムやアイダ・デヴァインらを尾行し証拠を集めている最中。

そうした調査がやがてマイヤー・ランスキーらの告発に繋がったかもしれないが、盗聴器が発見されたことで調査そのものが打ち切りとなってしまったのだ。

法的に問題のない手法で得られた情報すらも、始まりが違法だったことで致命傷を負わされたのだ。

告発することのできない存在という評判を1960年代のマイヤー・ランスキーはまとっていた。

それは彼の謎めいた賢さの表れで、まるで魔法のように不可思議なパワーと認識されていた。

実際には、1963年のフレモント・スキミング事件でランスキーのお守りとなったのは彼の賢さではなく、政府の違法性と無能さだった。

1951年にエステス・キーフォーヴァーがランスキーを「アメリカ東部の犯罪シンジケート」の3大リーダーの一人に数えたことで、ギャンブル事業以外の証拠もないまま司法省はランスキーを起訴のトップ・ターゲットに見据えた。

かつてドクスタチャーもこう話したことがある。

「ランスキーはマフィアの産みの親であり、管理者だ」

また、ある人はランスキーがコミッションを管理していたとも話す。

さらにラスベガスやニューヨークでは“コーサ・ノストラ”の大物達がランスキーと落ち合う姿が目撃されている。

大物とはルッケーゼファミリーのボス トミー・ルッケーゼ
ガンビーノファミリーのボス カルロ・ガンビーノ
ジェノベーゼファミリーのボス フランク・コステロ
ブファリーノファミリーのボス ラッセル・ブファリーノ
シカゴマフィアのボス サム・ジアンカーナなどである。

どれだけ優秀にせよ、一介のギャンブラーをこれほどの大物達が訪ねることなどあるとは到底考えられない。

少なくとも全国の犯罪組織とランスキーが密に繋がっている事は明らかだろう。

ランスキーの人脈はアメリカ犯罪史というパズルのピースのように思われた。

しかし1950年代、司法省は移民帰化局を通した攻撃しかできないでいた。

その主張は1928年にアメリカ市民権を申請した際にランスキーが犯罪歴を隠していたというものだった。

この線は1958年に断念されている。

移民局で手続きを受け付けた者の混乱した記憶や、私利的な囚人のダニエル・エイハーンが語る毒入りチキンの話は30年後たった現在では証拠として不十分だと考えられたからだ。

FBIのマイアミやラス・ベガスでの尾行や盗聴器はこの後を継ぐもので、合わせると二つの調査—一つ目は移民帰化局によるもの、二つ目はFBI—は10年以上もの政府の徒労に終わったのだった。

フレモントの一件でマイヤー・ランスキーが何の罪にも問われずに逃げおおせたのは単なる強運だったが、そこから学んだことを生かしたのは彼の賢さを表していた。

スキミング活動が公になったことでマイヤーとジミー・アロはキューバでの事業の終焉と同じくらいドラマチックな方向返還に導かれるのだった。

FBIがラスベガスのカジノとその匿名ポイント保有者に関心を持ち始めたのは、フランク・コステロのポケットに入っていた一切れの紙がきっかけだった。

1957年、セントラル・パーク・ウエストのマジェスティックで暗殺未遂に遭ったコステロの所持していた紙には「カジノ勝ち」がリストアップされており、それは当時ラスベガスにオープンしたばかりのトロピカーナの4月3日~26日の勝ちに一致した。

6年後にフレモントで発見された盗聴器は、それから政府がいかに進歩し、どれほどのリスクを冒してまでカジノのスキミングや匿名ポイント保有者の真実を知りたがっていたのかを証明するものだった。

スキミングは1963年以降もラスベガス方式で脈々と続いていったが、マイヤー・ランスキーとジミー・アロには悪い兆しが見えていた。

「俺たちは年を取りすぎている」とジミーはよく言った。
「いつまでもこんなことをしているわけにはいかない。」

エディ・レヴィンソンの事務所で漏れた情報はどの程度だったのか?
また、ラスベガスの他のエグゼクティブ・オフィスや集計部屋にも盗聴器が仕掛けられていたら?

この調査は失敗したかもしれないが、暴かれた事実が他の調査を誘発し、今度は失敗しないかもしれない。

ジミー・ブルーアイズは以前にも潔く身を引いたことがあった。

「黒人の奴らが数字を欲しがるなら、くれてやれ。」

そういって、1930年のハーレムでチャーリー・ルチアーノと共に築き上げた宝くじの帝国を数年前に去ったばかりだった。

ネバダをとっても、一番いい時期は過ぎ去ったのがランスキーとジミーの目には明らかだった。

第二次大戦後にラスベガスが経験した成長の20年は、違法に得られた専門性と違法に得られた資本によって支えられていた。

最大の飛び領土であったネバダはカーペット・ジョイント出身の無法者なくして発展することはなかっただろう。

ラス・ベガスの匿名ポイント保有者システムがそれを反映していた。

警察の側から見れば、カジノのスキミングは消し去られるべき悪しき習慣だった。

経済や歴史の観点からは違法が合法へ変異する過渡期だった。

過渡期が過ぎてしまえばその必要性はなくなる。

「金を回収して、静かに暮らそう」ジミーは言った。

少し時間はかかったが、1967年にサンズは外部企業がオーナーとなり、ラス・ベガスでは二例目となった。ジャック・アントラッターと共に名前が登記されていたオーナー達は、1460万ドルでハワード・ヒューズにホテルを売却した。

その数ヶ月前にはモー・ダリッツのデザート・インがヒューズによって買い取られていた。

それを皮切りにラスベガスは徐々に複合企業や公開会社の領域へと変化していった。

より大衆向けにマーケットされ、ディズニーランドのような機械仕掛けの火山や中世の馬上槍試合、ビデオポーカーなどが登場したのだ。

ハーバードやウォートン流にアップデートされたラスベガスではコンピューターと公認会計士が重用された。

仕事がやりにくくなったスキム屋や、カジノのホスト、昔ながらの高額ギャンブラーは肩身が狭くなり、絶滅の危機に瀕している。

ある内部の人間によれば、1967年にマイヤー・ランスキーはサンズの売り上げから100万ドル強を受け取った。

それはランスキーがコントロールしていたポイントの半数程度を個人で所有していたことを示している。

非課税の収入である上に、下手をすれば逮捕に繋がったかもしれない事業の清算費としては十分だった。

ジミーとランスキー、そして長く保有したポイントを大金と引き換えに手放した他のパートナーたちもそれで良しとした。

一方で買い取った企業はどれも安い買い物をしたのだった。

次の10年間でラスベガスのカジノの価値は何倍にも膨れ上がり、オーナーが変わるたびに何億ドルもの取引がされるようになった。

1970年や1980年代に大人気だった各州の合法宝くじのように、価値が瞬く間に倍になっていく。

ラス・ベガスを受け継いだ企業は堅気の商売でもゆすりを悪党並みにやってのけられることを証明した。

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