三分で学ぶラッキー・ルチアーノpart6
三分で学ぶラッキー・ルチアーノpart6
目次
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次なる標的
ルチアーノを葬ったデューイの次なる標的は殺人株式会社のリーダー ルイス・“レプケ”・バカルターだった。
あの野郎は香港から麻薬を密輸していた。
だが私はアドニスを通じてアナスタシアにレプケを匿えと伝えた。
これはレプケはアドニスと親しいとわかっていたからだ
こうしてレプケは姿を消したのだが、1937年、デューイはレプケを指名手配した。
しかしデューイに黙っていいようにされるレプケではなかった。
“デューイは有力な証人を得たに違いない”と考えレプケは殺人株式会社を使い、片っ端から寝返りそうな相手を殺害し始めたのだ。
絶え間ない殺戮を見かねたトミー・ルッケーゼはルチアーノを尋ね、こう話した。
『あなたが去って全てが変わってしまった。
コステロは自分の利益ばかり、ランスキーはハバナに入り浸り、レプケはデューイとフーヴァーに狙われ殺戮を始めた。
もしレプケが捕まれば取り返しのつかない事態を招くかもしれない』
ルチアーノは目を閉じ3分ほど感慨を巡らせ、それから言った。
「レプケを殺すことは出来ない。デューイもだ。
ランスキー、コステロ、アドニス、アナスタシアにレプケの保護を止めると伝えてくれ」
それからルチアーノはランスキー宛に手紙をしたため、ポラコフに託した。
この手紙にはデューイを懐柔するための作戦が記されていた。
まずコステロがデューイに“ルチアーノがレプケを差し出す、デューイがニューヨーク知事に立候補するなら全面的にサポートする”と伝える。
レプケには司法取引によりFBIに投降すれば、デューイには差し出さないと話す。
この作戦を実行に移したランスキーはアナスタシアにフーヴァーとレプケが合うセッティングをさせた。
捕らわれたレプケ
1939年8月24日午後10時、アナスタシアの運転でレプケは待ち合わせの場所に向かった。
この時レプケは襟を立て、大きなサングラスで変装していた。
待ち合わせ場所にはリムジンが停まっており、中にはフーヴァーが。
フーヴァーはレプケをリムジンに乗せると“お前は麻薬の密売で有罪になる、それからデューイに引き渡す”と伝えた。
レプケは罠にかけられたことに気がつき逃走しようとしたが、車は既に捜査官達によって取り囲まれていた。
フーヴァーの言葉通り、レプケは麻薬密売で14年の刑を言い渡された。
それからデューイがレプケを強請で告発した。こちらは30年の刑だった。
歌う男
3月31日、操作の手が迫っていることを悟ったエイブ・レルズというマフィアが警察に寝返った。
レルズは大物ではなかったものの、殺人株式会社のメンバーで無数の殺しに携わっていた。
レルズは自身の無罪放免と引き換えに、あらゆるマフィアの秘密を暴露し始める。
それから三週間後、コステロはルチアーノの元を尋ねこう伝えた。
『レルズが寝返った。奴はかなりの事をカナリヤのように歌っているそうだ。
奴の話の中にはアナスタシアやバグジー、レプケも登場している』
裏切り者が出るという事態はルチアーノが最も恐れていたことであった。
私はレプケはいいが、バグジーとアナスタシアは友達だと伝えた
ルチアーノがどうでも良いと言ったレプケと殺人株式会社のメンバー数人はレルズの証言に基づき死刑を宣告された。
レプケは何も語らず、無表情で電気椅子に座った。
箱入りレルズ
レプケの死から少し立った頃、コステロは再びルチアーノを尋ねた。
私はバグジーとアナスタシアを救うには殺るしかないと伝えた
コステロはこの決断への答えを既に用意してきていた。
『レルズは24時間警察に保護されていて、殺る隙はない。
しかし警備を担当する警察を買収することは可能だろう。金はかかるがね』
ルチアーノはこれに同意し、金額は任せると伝えた。
バルズという古株の警官と“ホテルの窓からレルズを投げ出す”という取り決めを結んだ。
レルズが死んだのは1941年11月12日だ。
忘れたことはない。わたしの人生の曲がり角の一つとなった日だからね
12日の朝、レルズは窓から転落し死亡した。
窓には結ばれたシーツがかかっていた。
レルズを護衛していた警官は異変には一切気がつかなかったと証言している。
真相は居合わせた5人の警官全員が5万ドルで買収されていた。
万が一事が明るみになれば、追加で金を渡す準備もしていたんだ。
警官達はレルズを棍棒でなぐり、それからバルズが直々に窓から放り出した
バルズはその後、警視副総監に出世しルチアーノから賄賂をもらい続けた。
1940年末、ルチアーノの裁判を担当した裁判長が面会にやってきた。
彼はルチアーノを陥れたことを後悔しており、許してほしいと泣いた。
ルチアーノは複雑な心境で謝罪を受け入れた。
第二次世界大戦
1941年12月7日、真珠湾が攻撃されアメリカは第二次世界大戦へと突入。
ニューヨーク州知事のハバート・レーマンは政府の意向で軍へと移り、後がまにはトーマス・デューイが選ばれた。
第二次世界大戦はマフィア界にも影響を与えた。
アルバート・アナスタシアが軍の教官として徴兵されたのだ。
アナスタシアは満更でもないといった感じで、後に名誉除隊となりアメリカの市民権を授かった。
一方、ルチアーノは過酷な刑務所生活の中でも自由を諦めておらず、遂に名案を思い付いた。
この時、ヴィト・ジェノベーゼは警察に追われイタリアへと逃亡していた。
ジェノベーゼはルチアーノに手紙を書き“あんたはイタリアでは法王のように尊敬されてるよ”と書いていた。
もう一つ、新聞が“海軍はドイツの破壊工作を懸念している”と報じていた。
二つを合わせて考た結果、ルチアーノは自由はすぐそこだと小躍りし、その後で馬鹿げな夢物語なのでは?と不安になった。
私は“私を自由に出きるのはデューイだけだ”とランスキーに話した。
ランスキーはすぐに私の考えを理解したようだった
計画の第一段階として、海軍が港を支配するマフィアの手を借りたいと思うほどの大事件を起こす必要があった。
私はすぐに計画を実行に移してくれと伝え、それから一ヶ月間まだかまだか首を長くして待っていた
ルチアーノを救え!
ルチアーノの計画を聞いたアルバート・アナスタシアは国際港湾労働者協会を仕切っている弟のトニーに連絡した。
アナスタシア兄弟は話し合いの中でマンハッタンに停泊中の超大型豪華客船“ノルマンディー号”の事を思い出す。
私はラジオでノルマンディーが燃えているというニュースを聞いた」
ノルマンディーは“謎の不審火”によって炎上し転覆、この姿は多くのアメリカ人に衝撃を与えた。
この事件で危機感を募らせた海軍は港を仕切るイタリア系の人々が敵国に協力する事をなにより恐れ始めた。
そのタイミングでコステロは友人の政治家にこう噂を広めた、
『マフィアは犯罪者だが愛国的なアメリカ市民だ、要請さえあれば協力を惜しまないだろう』
さっそく噂を耳にした海軍はチャールズ・ハッフェンデン少佐に“マフィアに協力を要請しろ”と命を下した。
ハッフェンデンはまずトーマス・デューイを尋ねた。
デューイは自身の部下フランク・フォーガンとマレー・ガーフェインの二人を貸し出し、さらにジョセフ・“ソックス”・ランザとの面会をセッティングした。
ランザはフルトン魚市場を仕切るマフィアで、港の事ならば彼だろうと思ったのだ。
ランザとハッフェンデンは真夜中、アッパーリバーサイドの公園で落ち合い、ベンチに座り海軍の要請について語り合った。
ランザは情報を提供するなど表向きは協力的だったが、港への捜査官の配置などは返事を渋った。
押し問答の中ランザはこう伝えた。
『協力したいが正直なところ私にはそこまでの権限はないのです。
ただ、一人だけ。イタリア系を完全に協力させられる男がいます』
ハッフェンデンはこの話に食い付き、その男とは誰なのか尋ねた。
ランザは計画通りにチャーリー・“ラッキー”・ルチアーノさ、と伝えた。
オペレーションアンダーワールド
ルチアーノは海軍に「協力するには部下と連絡の取りやすいニューヨークの近くに、シンシン刑務所に移して欲しい」と条件を付けた。
シベリアからの移動は革命的だった。
蛇口からお湯が出るし、トイレットペーパーがあったからね
移送されてそうそうに、ルチアーノは面会室に呼び出された。
部屋に入るとハッフェンデンとデューイの部下、ポラコフ、フランク・コステロとマイヤー・ランスキーが座っていた。
ルチアーノが席に着くとハッフェンデンは単刀直入に『海軍に協力して欲しいのだが』と切り込んだ。
わたしは思わせ振りに少し考えてから、勿論だとこたえた。
ハッフェンデンは実にチョロい男だった
ハッフェンデンが上司に朗報を伝えるため退席すると、本当の話し合いが始まった。
デューイの部下は1940年の大統領選での支援を求めた。
この申し入れについてコステロがコネを使った支援を、ルチアーノが9万ドルの資金援助を行うことで話がまとまった。
金は頭金2万5千ドル、残りは私が出所した時点で支払うことになった
話はついたものの、ひとつだけ想定外の事があった。
ルチアーノは即時釈放を求めたが、デューイは戦争の終結後に国外追放すると言って譲らなかった。
ルチアーノは説得を試みたが結局は妥協した。
釈放さえされれば帰国の道を模索することも可能だろうと踏んだのだ。
新たな火種
ルチアーノは港の警備だけではなく、シチリア島上陸作戦にも協力を求められた。
ルチアーノが知らせたシチリアの細かな情報は上陸にあたりとても由宇駅なものだった。
さらに海軍は“L”の文字を染めた布をシチリアマフィア達の自宅へと投下。
これは“ラッキー・ルチアーノが海軍に協力している”というメッセージであった。
メッセージを受け取ったマフィア達や市民は海軍に協力的な態度をとり、情報や物資の提供を惜しまなかったという。
当のルチアーノは独房の壁にヨーロッパの地図を貼り、連合国軍がどこまで進軍したかを書き記していた。
戦争がもうすぐ終わることは誰の目にも明らかであった。
1944年にはイタリアが降伏。
ルチアーノが歓喜する一方で、新たなトラブルが巻き起こっていた。
イタリアに逃亡していたヴィト・ジェノベーゼは軍の高官に取り入り、闇市を支配していたのだが、事が露見し逮捕されてしまったのだ。
アメリカで指名手配中である事も判明し、ジェノベーゼはFBIに身柄を引き渡さされる。
私はジェノベーゼをどうしたものかと思っていた。
その矢先、奴の事件の証人が殺害され、ジェノベーゼは自由の身となった
釈放
1945年5月7日、ヨーロッパでの戦争終結をうけてルチアーノに恩赦を求める嘆願書が提出された。
ハッフェンデンも個人的に書簡を送り、これを後押しした。
嘆願書を受け取ったデューイは直ぐ様コネを使いルチアーノの釈放を決定。
1946年1月3日、デューイは正式に『ルチアーノを釈放しシチリアへ送る』と発表した。
1946年2月2日、ルチアーノは刑務官からニューヨーク港のエリス島へ移送された。
この道中、車の窓越しではあるものの久々にニューヨークの街を眺めた。
エリス島に到着したルチアーノは国外退去まで一週間の待機を命じられた。
私は“今に見てろ、絶対に帰ってくるぞ”と思っていた
ルチアーノは一週間の間にデューイへの6万5千ドルの支払いを済ませた。
欲しいものを全て手に入れたのはデューイ知事一人だけであった。
お別れパーティー
1946年2月9日の朝、ルチアーノをイタリアへ送り届けるローラキーン号が港に到着。
ルチアーノの乗船に先だってアドニスがお別れパーティーの支度を進めていた。
船内には七面鳥やローストビーフなどのご馳走とシャンパン、ヴァージニア・ヒルが連れてきた三人の美女が用意された。
華やかな船内の外では手カギを持った労働者達が船を囲んでいた。
その為マスコミはみぞれに打たれながら、立ち尽くすのみであった。
やがて何台か黒塗りのリムジンが到着した。
乗っていたのは
・バグジー・シーゲル
・ウィリー・モレッティ
・ロンギー・ツウィルマン
・トミー・ルッケーゼ
・ジョー・アドニス
・アルバート・アナスタシア
・ジョゼフ・ボナンノ
・カルロ・ガンビーノ
などのそうそうたるメンバー。
やがてルチアーノが到着するとパーティーが始まった。
集まった参加者は昔話に花を咲かせ、ルチアーノの幸運を祈った。
しかし誰もルチアーノとの別れを惜しむものはいなかった。
皆、ルチアーノがいずれアメリカに戻るであろうと思っていたのだ。
皆が下船すると私は孤独感に襲われた。
汽笛が鳴り始めると胃が痛んだ。
こんな事はダンネモーラのゲートが後ろで閉まった時とこの時だけだった
ルチアーノはデッキに出て自由の女神を眺めた。
そのルチアーノを移民局の男が見張っていた。
これはルチアーノが海に飛び込み逃亡するのを防ぐためであった。
私は自由の女神を見て“ちょっと旅行に行くだけだ、またすぐに彼女がグッバイではなくハローと出迎えてくれるだろう”と思っていた
前途多難
私は船に強い方ではないんだ。
船は大きく揺れて今にも沈没しそうだった、船員は揺れるたびに救命ボートを準備していたな
出向から二日間、ルチアーノはベッドで唸りながら過ごした。
三日目、海が穏やかになりルチアーノはやっとベッドから這い出た。
船にはヴァージニア・ヒルが選抜した三人の美人が乗っていた。
三人はイタリアへ到着するまでの間ルチアーノの世話をやく事になっていたのだ。
私は三人と交代で寝た、実際には寝るまもなく寝不足でクタクタだった。
なにせ私はもう50歳で若くはなかったんだ
イタリアが間近になるとルチアーノは仲間達からの贈り物を確認した。
パーティーで貰った選別は16万5千ドルの以上もあった。
もうひとつランスキーとコステロからは大量の酒が届けられていた。
ルチアーノは酒を船員全員に振る舞いパーティーを開いた。
私はパーティーで船長に“私が船長のように格好よく降りたい”たお願いしておいた
しかしこの願いは叶わなかった。
翌朝、二日酔いで目を覚ましたルチアーノがデッキに出ると警察官で溢れていた。
中には麻薬取締局や軍隊、機動隊、政府高官などならゆる人物も混じっていた。
混み合うデッキを見たとき、素晴らしい旅が終わり再びトラブルが待ち受けているのだと悟った