三分で学ぶガイ・フィッシャー
三分で学ぶガイ・フィッシャー
ガイ・フィッシャーの生い立ち
1947年7月21日、ガイ・トーマス・フィッシャーはニューヨークのサウスブロンクスで5人兄弟の長男として誕生した。
家庭は貧しく、母は小児科の看護師として懸命にはたらいていた。
その一方、父はアルコール&ギャンブル依存症で日常的に暴力を振るい、恐怖政治を敷いていた。
やがて父が蒸発すると、フィッシャーは不良少年になってゆく。
ストリートギャング
10代半ばになったフィッシャーは学校に通い、放課後は路上にたむろし喧嘩をするという日々を送り始める。
やがて暴行罪で逮捕され少年院に送られたフィッシャーは二年間収監された。
出所後、フィッシャーはチーズ売りとして真面目に働き始める。
しかし長時間と低賃金は割に合わないと感じたフィッシャーは“割りのいい仕事”を探し始めた。。
麻薬王への道
低賃金の仕事をしながら必死に金を貯めたフィッシャーは大量のヘロインを購入、転売を始めた。
大金が転がり込み始めたにもかかわらず、フィッシャーは派手な買い物などはせず、控えめな行動を好んでいた。
服装はもっぱらスニーカーにジーンズでした。
既に麻薬王として知られていたニッキー・バーンズはフィッシャーの真面目なスタイルを気に入った、と同時にその才能に惚れ込み可愛がるようになった。
バーンズとのコネはハーレムでのしあがる上で大きな武器となるのだった。
評議会入り
1973年、24歳のフィッシャーは黒人ギャング版“コミッション”であるカウンシルのメンバーに選ばれた。
選んだのは師匠であり友人のバーンズである。
この時までにフィッシャーはバーンズから組織運営のいろはを教えて貰っており、大物の仲間入りを果たしていた。
バーンズとフィッシャーは共同で数百万ドルを不動産事業に投資しており、お互いを固く信頼し合っていたのだが。。
不協和音
1975年、地元の警官が交通違反の切符を切ろうとフィッシャーの運転する車を止めた。
その際、フィッシャーは偽の運転免許証を所持していた。
マズイと感じたフィッシャーは「トランクに10万ドル入ってる。どうだ?」と持ちかけたが、警官は賄賂を受け取らなかった。
この事件でフィッシャーは9ヶ月間刑務所に服役。
その間にシャバでは麻薬に対する取り締まりを求める世論が高まっていた。
当然、フィッシャーも麻薬組織の重要人物、しかも大金を持っているとして徹底的にマークされるようになってゆく。
さらに悪いことにバーンズが麻薬密売容疑で逮捕されてしまう。
事態を重く見たジミー・カーター大統領は「カウンシルを壊滅させろ」と各機関に通達をだした。
1976年9月、カウンシルのメンバー全員が裁判にかけられた。
とり上げられた罪はフィッシャーが服役中のもののみで、その点を主張したフィッシャーは唯一無罪となった。
帝王へ
1978年、フィッシャーはハーレムのアポロシアターを購入、改装した。
フィッシャーはこの機に合法的なビジネスに専念しようと決めていたのだ。
同年5月、シアターのオープンを正式に発表。
記念にプライベートパーティーを主催した。
フィッシャーはオーダーメイドのピンストライプスーツで颯爽と現れ、隣には黒人の美女を連れていた。
パーティーにはスティーヴィー・ワンダーなど多くの有名人が参加し、フィッシャーの成功を祝った。
数週間後、テレビ局からアポロシアターに思わぬ依頼が舞い込む。
土曜日夜のショーを放映したいというのだ。
シアターの所有権の名義は家族のものになっていました。
これでフィッシャーには大金が舞い込み、成功は決定的なものとなるかと思われた。
しかし、契約直前に真のオーナーがフィッシャーであると気づいたテレビ局は契約を白紙に。
真っ当なビジネスで成功しても認められないのかと感じたフィッシャーは獄中のバーンズと手を組み、カウンシルのリーダーに。
再び麻薬ビジネスを始めた。
裏切り
フィッシャーの麻薬ビジネスは当然、成功した。
やがてバーンズに終身刑が下るとフィッシャーは、弁護士費用の支払いを辞め、バーンズの女も寝取った。
この事実に怒り狂ったバーンズは、政府に寝返りフィッシャーの罪を洗いざらい密告。
フィッシャーはすぐさま逮捕され、仮釈放なしの終身刑を言い渡された。
刑務所でのフィッシャー
イリノイ州マリオン連邦刑務所に送られたフィッシャーは小説を書いたり、学士号を取得したりと充実した日々を送った。
2020年10月28日、フィッシャーは体調面の不安から釈放され、今もどこかで暮らしている。