ラスベガス成功の立役者はカストロ!?
キューバ革命とマフィア
フィデル・カストロは、ゲリラ部隊を率いてフルフェンシオ・バチスタの独裁政治を打破しました。
バチスタが首都キューバから逃げ出した後、カストロは1959年1月1日、ハバナに到着。
民衆は暴徒化しカジノやパーキングメーターなどを破壊した。
これにより最も打撃を受けたマフィアはマイヤー・ランスキーとサント・トラフィカンテJr.。
特にランスキーは、バチスタのカジノギャンブルアドバイザーとして直接雇われ、給与を受け取っていたほか、数百万ドルを費やし〝ホテルリビエラ〟という超豪華リゾートを建設した所だった。
マフィアと反乱軍
1958年12月31日、ランスキーはカストロが勝利したという事を知ると直ぐ様、関係者全員に「資産を全てかき集め、カジノを閉鎖しろ」と命じた。
賢明かつ迅速な対応だったが、多くのマフィアや関係者はそれほど深刻に事態を受け止めなかった為、対応は大きく遅れることに。
サントトラフィカンテもその一人で、大統領が変わってもカジノを支持するだろうと思っていた。
翌朝、反乱軍はたちは次々とカジノを襲い、スロトットマシンは全て破壊された。
さらに反乱軍はカジノに豚を放ち、カジノは豚の糞尿にまみれるという屈辱にも見舞われてしまったのだった。
ラスベガスのライバルハバナ
1950年代後半、バチスタの時代、ハバナの観光産業は急成長していました。
ハバナのリゾートやカジノは主にアメリカマフィアが運営しており、アメリカから短時間で来られるギャンブル、酒、女、ショーなんでも揃う楽園として人気を博した。
これに対抗するべくネバダ州のギャンブル委員会は「ハバナでカジノを運営している者には、ネバダ州のゲーミングライセンス与えない」という規定を設ける。
これにより〝ホテルフラミンゴ〟を運営していたモー・ダリッツなどのマフィアはラスベガスかハバナかを選択しなければならなくなった。
皮肉なことに、キューバからの撤退を余儀なくされたマフィアは当初は猛反対したが、後に感謝することとなる。
さらに皮肉な事にラスベガスとハバナどちらの産みの親でもあるランスキーはハバナに重きを置いていた。
後にハバナのカジノが全て閉鎖されると、マフィアはより多くの投資をラスベガスに行うようになりラスベガスはより一層繁栄してゆく。
さらにキューバ革命により職を失った多くの優秀なダンサーやディーラー、料理人は国外逃亡し、ラスベガスにやって来た。
これもラスベガスの発展に大きく貢献することに。
ある者はキューバからやって来て、やがてラスベガスのカジノ管理者にまで出世するなどの活躍を見せている。
ランスキーがディーラーをラスベガスから引き抜いたり、養成学校まで運営していた事を思うとなんとも皮肉です。
最もランスキーもラスベガスの利権の全てを捨てたわけではありませんが、金銭的、精神的なダメージは計り知れなかった。
カストロのキューバ革命は意図せずラスベガスの繁栄を助ける事となったのであった。。