三分で学ぶラッキー・ルチアーノpart8
三分で学ぶラッキー・ルチアーノpart8
目次
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ハバナスキャンダル
1917年2月、ラッキー・ルチアーノとフランク・シナトラの乱痴気騒ぎ、いわゆる乱交パーティーが大々的にスクープされた。
ちなみにこれは記者が命がけでホテルに潜り込んだ結果である。
これを受けて麻薬取締局のハリー・アンスリンガーはこう声明を出した。
「ルチアーノが西半球にいる以上、アメリカは安全とは言えない。
奴はキューバからアメリカの麻薬ビジネスを仕切っているのだ」
さっそくアンスリンガーはキューバ政府にルチアーノ追放を要求したがあっさり断られてしまう。
すると今度は大統領に圧力をかけるよう要請。
この効果は絶大だった。
アメリカはルチアーノを追放しなければ、キューバへの医療品の輸出を止めると言ってきたのだ。
困り果てたバチスタはマイヤー・ランスキーを呼び出し会議を開いた。
「もはやルチアーノにはいなくなってもらうしかないだろう」とバチスタ。
ランスキーも従うしかなかった。
バチスタとの繋がりが切れればマフィアはキューバに持つ利権を全て失うことになるのだ。
落日
ルチアーノはフランク・コステロをハバナへと呼び、どうすべきかを相談した。
ルチアーノはキューバからアメリカへと砂糖の輸出を止めるべきだと考えたが、今回の夢物語は実現しなかった。
2月23日、ルチアーノはレストランでランチを楽しんでいた際に逮捕され、出入国管理キャンプへと送られた。
あそこは暑くて地獄のようだった。
まぁアメリカみたいな大国に圧力をかけられたら、キューバにはなす術はなかったのさ
1947年3月29日、最終的な決定がくだされルチアーノは再びイタリアへと送り返された。
ただしバチスタはルチアーノが戻ってこられる時のために、購入したカジノの株をそのままにしておいてくれた。
バグジーとヴァージニア
1947年4月11日、イタリアに到着したルチアーノは故郷レルカラ・フリッディへと送られた。
ハバナでの騒動を重く見たイタリア政府はルチアーノへの監視を強め、軟禁状態に置こうとした。
しかしルチアーノはコネを駆使してなんとかローマに移住し再び闇市をしきり始めた。
私は毎晩神に祈った。柄にもなくな。
どうかデューイが大統領になりますようにと。そうなれば再び買収も可能だろうと思ったんだ
6月20日、ルチアーノは突如警察に連行され尋問を受けた。
そこで私はバグジーが射殺されたことを知った。
私は誰がやったのかは本当に知らなかったし、知る必要もなかった
バグジー殺害の取り調べは終わったが一つ問題が残った。
バグジーの愛人ヴァージニア・ヒルである。
ヴァージニアはイカれた女で誰とでも寝た。
彼女は知りすぎていた為、消さねばならなかったが、寝た男達が彼女をかばっていた
キーフォーヴァー委員会に召喚されたヴァージニアはルチアーノに“ナポリに行くので会いたい”手紙を送ってきた。
これはルチアーノの事を証言するぞという脅迫である、とルチアーノは受け取った。
ルチアーノは渋々ヴァージニアに金を支払い、彼女が法廷で証言することはなかった。
終わりと始まり
ルチアーノは美しいホテルに滞在しつつイタリアの暗黒街を支配した。
また、イタリアにいようともその影響力はアメリカにまで及んだ。
私がイタリアに来ていても、アメリカで何かを決定するには私の許可や意見が必要だった。
伝令役が耐えず私のところにメッセージと現金を運んでいたよ
ルチアーノに送られた金額は破格の毎月2万五千ドル。
しかしながらアメリカにいた時と全てが同様にとはいくはずもなかった。。
運命の女
それは1947年12月24日だった。
私の人生で最も重要な日だ。彼女は26歳、私は50歳だった
ルチアーノはローマのクラブに立ち寄った際に踊り子のイジェア・リッソニに一目惚れをした。
ルチアーノはオーナーに命じてイジェアをテーブルへと呼んだが、彼女はルチアーノに見向きもしなかった。
イジェアは育ちが良く、元バレリーナで品があった。
ギャングと過ごすのは一家に泥を塗るようなものだったんだ。私は久しぶりに女性にフラれた
それからというものルチアーノは毎晩出待ちをしてはイジェアにプレゼントを送り続けた。
しかしなんの進展もないまま1ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。
私はいつの間にか彼女に恋をしていた。
女性は毎晩取り替えるような生活をしていたが、彼女は特別だったんだ。
私は常に彼女の事が頭から離れなくなっていた。
三ヶ月が過ぎた頃、イジェアはルチアーノに心を許すようになり、二人は初めて食事に出掛けることに。
ルチアーノは本気で結婚を考えていたし、申し込みもした。
それからルチアーノはイジェアに自分のこれまでの人生を語り始めた。
裁判の事や国外追放のこと。。
イジェアは一言だけ答えた。
「もう話さないで、チャーリー。大事なのはひとつだけ、愛してるってこと」
その晩二人は初めて一夜を共にし、それから同棲を始めた。
まるで初めての女性のように感じた。
彼女は私に子供が欲しいかと訪ねて、私は“10人だって欲しいが、一人も持つ余裕はない”と答えた
ルチアーノはホテル暮らしを辞め、イジェアと共にマンションで暮らし始めた。
二人は決して籍を入れなかった。
結婚しても私はいつ殺されるかわからない。
子供が生まれても悲惨な人生が待っている。
そんなことはできなかった。
彼女は「よくお金なんていらない、あなたを愛しているの」と言ってくれた
ルチアーノを知る人たちはこの頃が一番幸せそうだったと語る。
事実その通りで二人は平穏な日々を心から楽しんでいた。
しかしイジェアの両親は同棲に反対し、「アメリカの殺し屋と付き合うなんて」と激怒。
ルチアーノはイジェアにいずれ両親は折れるとよく話していて、事実その通りになった。
イジェアの家族はルチアーノを息子のように扱うようになり、二人の生活はは一点の曇りもないものとなった。
暗雲
二人が同棲し始めて一年ほどの月日が流れた1949年1月8日、ニューヨーク港の税関で大量のアヘンとヘロインが発見された。
輸入を試みた輸入業者は逮捕され、取り調べで“ルチアーノが絡んでいる”と供述した。
この事件を受けてイタリア警察とアメリカ警察は共同で事件を追い始めることに。
やがて警察はルチアーノの友人であり、麻薬密売業者の男達を逮捕。
合わせてルチアーノも身柄を拘束された。
ルチアーノは九日間もの間、尋問され、同棲生活を行っていたアパートは徹底的な捜索を受けた。
結局、警察は麻薬とルチアーノを関連付ける証拠を見つけられず釈放。
ルチアーノが勾留されている間、ずっと刑務所の前で待っていたイジェアは涙し、二人は抱き合った。
彼女の他に山のようなマスコミが待ち構えていて、我々の写真をとった。
それを見て私はトラブルが終わっていないことに気がついた
アメリカからの強い圧力を受けたイタリア政府はルチアーノを再びレルカラ・フリッディに軟禁し、夜間外出禁止などの制約を課した。
私はイジェアに付いてくるなと言ったが彼女はレルカラ・フリッディまでやってきた
ルチアーノがトラブルに見舞われている一方、アメリカではルチアーノの跡目を巡る最終戦争が始まろうとしていた。。
旧友との再開
1949年、ルチアーノの元に思わぬ客人が訪ねてきた。
親友のマイヤー・ランスキーである。
ランスキーは1948年に再婚しており、今回は新婚旅行としてシチリアを訪れたのだった。
以前のアトランティックシティ会議と同様にランスキーは新婚旅行をダシにビジネスをしに会いに来たのだった。
久々に再開したランスキーはルチアーノにアメリカでの近況を伝えた。
「キーフォーヴァー委員会の追及によりマフィアへの反発が強まっている。
だが悪い事ばかりじゃない。
ビジネスは上向きで、口座が足らないほどだ」
近況を話した後、ランスキーは最も重要な事柄について説明した。
「カルロ・ガンビーノとヴィト・ジェノベーゼが妙な動きをしている。
アルバート・アナスタシアもボスのマンガーノと険悪だ。
何が起こってもおかしくない」
この知らせを聞いたルチアーノはジェノベーゼに“仲間への攻撃は許さん”と、
ガンビーノには“お前は間違いなくいずれトップに立つ器だ、焦ることはない”とメッセージを送った。
ルチアーノの読み通り、カルロ・ガンビーノはマフィアを背負って立つ存在になるのだがそれは別の話である。
とにかくルチアーノはガンビーノとジェノベーゼが反乱を起こさないよう祈っていた。
ランスキーがやって来た日は素晴らしい時間だった。
あいつの奥さんは頭がよくて、美人で驚かされたよ。
私と会った後、ランスキーはヨーロッパ各国を回る旅にでた。
ヨーロッパ各地にカジノを作るための根回しに行ったんだ。とんだ新婚旅行さ
動乱
キーフォーヴァー委員会はアメリカからルチアーノを徹底的にこき下ろした。
“闇の政府の王”とのあだ名を授かったルチアーノは記者会見を開き、これに抗議した。
アメリカの暗黒街ではより大きな動乱が起こった。
ルチアーノのメッセージも空しく戦争が始まったのだ。
アナスタシアはマンガーノを殺害。
アナスタシアの友人でルチアーノの名代であるフランク・コステロとジェノベーゼは陰湿な権力争いに突入した。
ちなみにこの時、ガンビーノはアナスタシアにアンダーボスに任命され出世を果たしている。
1950年の夏、ルチアーノはついに軟禁を解かれ、“ナポリまでなら移動しても良い”という条件付きだが自由の身となった。
さっそく私はイジェアと共にナポリに引っ越した。
ガンビーノが訪ねてきたのはそれからすぐの事だった
梅毒のマフィア
カルロ・ガンビーノはルチアーノにウィリー・モレッティを殺害する許可を求めた。
モレッティは梅毒に脳まで犯されており、この上なく口が軽くなっていたのだった。
モレッティは“コステロ派”の人間であり、彼の死はジェノベーゼの利益に繋がる。
しかしモレッティがマフィアに取り返しのつかないダメージを与える可能性も否めない。
私は、これ以上友人を殺したくない。
我々がよく世話になる弾丸を取り除く医者ではなく専門医に診せて、それでも無理ならば、その時に殺すんだ。と伝えた
しかしモレッティの症状は悪化の一途をたどり、手の打ちようがなかった。
1951年10月24日、モレッティはレストランで射殺され、マフィアはこれを“優しいケア”と呼んだ。
結果的にジェノベーゼ派がマフィア内で勢力を拡大し、コステロは苦戦を強いられることとなる。。
ヨーロッパ旅行
1950年10月、イタリア政府はルチアーノに国外旅行の許可を与えた。
それからというものルチアーノの趣味は旅行となった。
スイス、ベルギー、イギリス、フランス、スペインのみのビザしかなかったもののルチアーノは大いに楽しんだ。
ルチアーノはまずスイスへと飛び銀行に向かった。
ランスキーが新婚旅行の際に私の口座を作ってくれると言っていたので、それを確認したかった。確か20万ドルほどが預金されていたよ
それからルチアーノはイジェアと共にロンドンに向かった。
ランスキーはカジノビジネスを広げるためにロンドンに来ており、ルチアーノは友人と楽しい一時を過ごした。
私はよくパリの映画館にも通った。
吹き替えではないアメリカの映画を視ることが出来て、それだけで嬉しかった。
競馬場にもよく通ったよ。
でも違法な賭場には近寄らなかった。
強制送還されるか大金をスルのがオチだからね
キーフォーヴァー委員会
ルチアーノは映画館でショッキングなモノを目にした。
アメリカで行われたキーフォーヴァー公聴会の様子である。
ジョー・アドニス、マイヤー・ランスキー、フランク・コステロなどルチアーノの友人が入れ替わり立ち代わり法廷に立たされ尋問を受けていた。
中にはあのヴァージニア・ヒルも。
特にコステロは“マフィアのドン”として注目を集め、悪の権現として晒し者にされていた。
召喚されたのはマフィアだけではなく、元ニューヨーク市長のウィリアム・オドワイヤーやトーマス・デューイもだった。
デューイが頑なに証言を拒む姿をみてルチアーノは少しにやけた。
アドニスとルチアーノ
1951年、麻薬取締局長ハリー・アンスリンガーはチャールズ・シラグーサ捜査官をナポリに送り込んだ。
シラグーサはイタリア語とシチリア語を話せるという事からルチアーノを捕らえる任を受けていた。
シラグーサは麻薬の密売人を名乗りルチアーノに近づこうと画策。
しかし警察内部のスパイによりシラグーサの着任はすぐにルチアーノの知るところとなっていた。
作戦失敗を機に再びルチアーノへの捜査が活発となった。
ルチアーノは24時間監視され、電話は常に盗聴された。
イジェアはルチアーノに堅気になるべきだと説得し、ルチアーノも潮時だと認めざるを得なかった。
私は引退するために金が必要になった。
そこでジョー・アドニスがスイスに金を持ってきて二人で預金しに行くことにした
スイスの銀行にやってきたアドニスはルチアーノに封筒を手渡した。
あいつは映画スターみたいに髪をなでつけ、洒落たスーツを着ていたな
渡された封筒の中身は10万ドルほど。
ルチアーノが預金を済ませるとアドニスはスーツケースケースから300万ドルを取り出した。
私はアドニスを怒鳴り付けた。
なぜ私が10万ドルなんだ!と
アドニスはランスキーが金を全て管理しているから、文句は奴にいえと言い張った。
アドニスは旧友で、アメリカではコステロを支えている仲間だった。
だがこれ以降、私はアドニスを信用しなくなった。
ルチアーノはナポリに戻るとランスキーに手紙を書き、事の真相を尋ねた。
ランスキーからの返信によると、アドニスは国外追放された時の為に貯金していたとの事だった。
ここから徐々にルチアーノとランスキーの関係が変化してゆくこととなる。。