バグジーの伝説と史実
バグジーの伝説と史実
1991年に公開された映画『バグジー』ではウォーレン・ビーティがベンジャミン・”バグジー”・シーゲルを、アネット・ベニングがバージニア・ヒルを演じている。
映画によってバグジーの伝説は多くの人が知るところとなった。
しかし、その内容はどこまでが史実に忠実なのだろうか。
フラミンゴの名付け親
フラミンゴを完成させたのはバグジーだが、そのアイデアはロサンゼルスで成功したナイトクラブのオーナーであるビリー・ウィルカーソンだったという説がある。
ギャンブラーでもあったウィルカーソンは、1930年代後半からラスベガスによく通っており、そこで合法的なカジノを運営するというアイデアを思い付いた。
歴史家のラリー・グラッグ氏は、次のように述べている。
「ウィルカーソンは自分の計画したリゾートを「フラミンゴ」と名付けた。
彼は、南カリフォルニアの豪華なナイトクラブの要素をラスベガスに持ち込んで、彼が慣れ親しんだセレブな人々やハイローラーたちを魅了しようとした」
となるとバグジーの愛人ヴァージニア・ヒルのあだ名“フラミンゴ”とカジノの名前はたまたま一致したということになるが。。
ラスベガスは田舎?
映画ではバグジーが来る以前のラスベガスには小さな店しかなかったとされている。
しかし、1946年末(フラミンゴオープン時)には、現在ストリップと呼ばれているハイウェイ91号線に、「エル・ランチョ・ベガス」と「ホテル・ラスト・フロンティア」という2つの西部劇をテーマにしたリゾートがすでに営業を開始していた。
これらの第二次世界大戦初期のホテルカジノは、いずれもハイウェイ沿いの空き地に建設され、ゲームフロアやレストランなどの観光施設を備えていた。
だがフラミンゴは、より現代的でコストのかかるデザインを採用し、砂漠に観光客を呼び込むことに成功した、というのが実際である。
不運の雨
映画には、フラミンゴのグランドオープン日に嵐がラスベガスを遅い、そのせいで客が集まらなかったというエピソードが登場する。
実際には、クリスマスの翌日にオープンしたフラミンゴは満員だったという説もある。
南カリフォルニアをはじめ各地から観光客が、また地元の人々もオープニングイベントに参加した。
専門家によるとによると、その日は谷に雨が降ったが、わずか0.12インチで、”ものすごい雷雨 “ではなかったという。
新聞のコラムニストであるウォルター・ウィンチェルによると、フラミンゴは最初の3日間で28,000人の観客を集めたとそうだ。
だが、フラミンゴが赤字を出したのは事実のようだ。
カジノには熟練のディーラーや専門家がいなかったことから、客を勝たせ過ぎてしまったのだ。
さらに悪いことにフラミンゴの客室は完成していなかった。
つまり客たちは夜が更けると早々に、客室を備える他の2つのカジノに移ってしまったのだ。
ドラグナとバグジー
映画にはバグジーがロサンゼルスのマフィアのボス ジャック・ドラグナ(リチャード・サラフィアン)を殴り倒し、犬のように吠えることを強要するシーンがある。
実際にはドラグナとバグジーは表向き親しくしておりこのような事はなかった。
だが、ドラグナの部下であるジミー・フラチアーノはドラグナがバグジー殺害に一枚噛んでいると話している。
バグジーが殺されたのはいつ?
映画ではフラミンゴオープニングの夜、バグジーは仲間からの呼び出しを受け、その後銃殺される。
しかし、実際にはオープンイベントの夜、ハバナでマフィア達が会議を開き死刑宣告を下した。というのが実際の所である。
ちなみにバグジー殺害事件は公式には未解決のままである。
そのためビバリーヒルズ市警はバグジー殺害事件のファイルを未だに公開していない。
エド・リードとオヴィッド・デマリスが1963年に出版した『The Green Felt Jungle』によると1947年6月20日の夜遅く、バグジーはヴァージニア邸にいたところを窓から撃たれた。
ソファーに座っていたバグジーは4発の弾丸を受け、うち1発は目玉を吹き飛ばしていた。
また、映画とは異なり銃撃の夜、部屋にいたのはバグジ一人ではなかった。
仲間のアレン・スマイリーがシーゲルの近くのソファに座っていたのである。
そして銃撃が始まったとき、スマイリーはコーヒーテーブルの下に身を隠している。