最強の囚人マーク・ブランドン・リード

最強の囚人マーク・ブランドン・リード

最強の囚人マーク・ブランドン・リード

1954年11月17日、オーストラリア・メルボルンにマーク・ブランドン・リードは誕生した。

幼いころは学校ではいじめられており、数百回はケンカしてその度にボコボコにされていたという。

さらにリードは自宅に帰った後も父親にも暴力を振るわれていた。

そんな家庭環境のせいかリードは異常に気性が荒い人物に育つ。

13歳にしてギャング団シュアレイロード・ギャングに加入すると、こう言ってメンバーたちを驚かせた。

「俺は悪人からしか奪わねえ。

女性、子供、罪のない人々に危害を加えるのはゲスのすることだ」

以降リードは麻薬密売組織の売人を襲撃しては金銭を奪うようになったという。

やがてリードは金銭を奪うよりも効率の良い稼ぎ方を思い付く。

それは売人を誘拐・拷問し、ギャング達に身代金を要求すること。

彼はボルトカッターで指を切断する手法を好んだことから「チョッパー」のあだ名で知られるようになった。

当然、ギャング達はリードを始末しようと動き出す。

これによって街のあちこちでシュアレイロード・ギャングと、その他のギャング団の争いが起こるようになってしまった。

治安の悪化を懸念した警察は、街のいたるところに機動隊を配備。急いで元凶であるリードを逮捕した。

怒りの刑務所

1970年代後半、リードはペントリッジ刑務所に収監され、驚くべきものを目にする。

なんとギャングや犯罪者たちが刑務官を買収し、快適な日々を送っていたのだ。

これにリードはこう思ったと振り返っている。

「私はこの状況を正そうと思ったんだ。」

そして力で囚人たちを服従させるとギャング団を結成。

調子に乗っているギャングどもを片っ端から血祭りにあげるようになった。

「戦争に勝つ秘訣は、何かを好きになることだ。

敵は戦いを愛していなかった。だが俺は愛していた」

また1974年には児童性犯罪者レジナルド・アイザックスを「自殺」に見せかけて殺害している。

どうやらリードはレジナルドをシーツで絞殺し自殺に見せかけたらしい。

その件についてはこう話している。

「そのような方法で子供を殺す者は、生きるに値しない。

俺にはヤツを殺す義務があった」

そんなある日のこと。

トイレで用を足していたリードは、何者かに背後から襲われ、腹部をナイフで切り裂かれてしまう。

はらわたからは大腸が飛び出していたが、リードは歩いて医務室まで行き一命をとりとめている。

そして退院すると自身を刺した男を半殺しにした。

また刺した男のボスもナイフでめった刺しにして殺害している。

その後、敵対ギャングがボスの仇討ちの為に全面戦争を宣言。

リードの部下を片っ端から襲い始める。

ある者は両手足に釘を打ちつけられもした。

この事態を受けてリードは「これ以上部下がやられるのを見ていられない」と考え幕を引くことに決める。

リードは独房で自分の右耳を切り取り、心神衰弱を主張。

これにより精神病者用の刑務所へ移送される事となり、抗争は終結した。

破天荒なその後

その後、リードは出所しても破天荒な生活を続けた。

24歳の仲間が強盗で捕まった際には、裁判所に押しかけ発砲。

もちろん逮捕された。

この行為でリードは再び懲役13年が言い渡された。

そして1989年には、シャバに戻ってさっそくドラッグディーラーをショットガンで吹き飛ばして殺害。

この殺人でリードは懲役6年が言い渡された。

とはいえこの件でリードは正当防衛を主張。

無罪になっている。

これはリードが珍しく頭を使い、判事に賄賂を握らせていたからであった。

1991年、リードは自伝『塀の中より』を出版し大スターに。

家庭内暴力撲滅のための広告に登場するなど大活躍し、ファンクラブまで作られた。

そして最期は2013年10月9日、58歳でこの世を去っている。

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