ジップと呼ばれたマフィア
ルイジ・ザ・ジップ “ロンシスヴァッレは、マフィアの中でも特に変わった男だ。
背が低く、太っていて、だらしなく、つたない英語で話した。
また、身長と同じくらい横幅が広いことから人間ボウリングボールと呼ばれた。
さらにアメリカのマフィアからは、シチリアから来た田舎者という中傷の意味を込めたジップとの言葉でも呼ばれていた。
2013年にブルックリン検事局を辞めた、マイケル・ヴェッキオーネは、犯罪に関わる2冊の本を書いた。
その中でベッキオーネは、1980年代初頭にブルックリンのダウンタウンにある彼の狭いオフィスで何度も会ロンシスヴァレと会ったと書いている。
ルイジ・ザ・ジップはヘロインの密売人で、1979年に13人を殺害をしたヒットマンであった。
つまり、マフィアの大きな事件のほぼすべてで役割を果たした、裏社会のフォレスト・ガンプのような存在であったのだ。
ヴェッキオーネによれば、ロンシスヴァッレは「 マフィアがやってほしいことを引き受ける、都合のいい男だった」という。
マフィアの命令で、ヒット映画で有名になったフレンチ・コネクションのヘロインの取引にも従事していた。
フレンチ・コネクションとは、1975年から1984年に約16億ドル相当のヘロインをアメリカに送り込み、ピザ屋を隠れ蓑にした麻薬流通網である。
さらに彼は、マフィアのボスであるカーマイン・ギャランテ殺人事件や、バチカンから大金を盗んだとされるイタリア人銀行家の暗殺計画にも携わったと言われている。
初の殺し
ロンシスヴァッレのアメリカでの最初の殺しは、ボスの目に留まる絶好のチャンスとなった。
1968年のある夜、ブラックジャックに興じていた彼は、ボナンノファミリーのマフィアたちが、殺したい人物のことを話しているのを耳にした。
その男は、イタリア人の少女を斡旋するポン引だった。
まず、ロンシスヴァッレはポン引きに客として接近し、その後備考を続けチャンスを伺ったのだという。
ロンシスヴァッレは当時をこう振り替える。
「問答無用で死刑だった。少女は未亡人で、子供のために働いていたのだ」
彼は、ストリートハスラーから古い38口径のリボルバーを買い、ベルトパークウェイ沿いの人目につかない場所で試射した。
そして、ある日の朝6時、ポン引きが仕事に出ようと家を出たところで、背後から忍び寄り、頭を2発撃った。
「彼はすぐに倒れた。自業自得だ」
ロンシスヴァッレがポン引きを殺害した件は、新聞で大々的に報じられた。
そしてこれに気をよくしたロンシスヴァッレは、マフィアたちに「今後は俺が仕事を受ける」と伝えた。
この申し出を受けたマフィアたちは、彼を麻薬の運びやとして雇うことにしたのだった。
迫る捜査
ロンシスヴァッレは、ボナンノファミリーのために、麻薬の売人、殺し屋として働いた。
しかし、マフィアの正式メンバーにになるというロンシスヴァーレの夢は叶わなかった。
ヴェッキオーネによれば、彼はよく仕えたが、見下されたままだった。
彼らは、自分たちが大きな麻薬ビジネスをしていることを他のファミリーに知られないように、無関係のロンシスヴァーレを利用したに過ぎなかったのだ。
また、戦争が起きた際に、彼のような人間は、使い捨てのヒットマンに最適だった。
銀行家と殺し屋
ロンシスヴァルは、ミケーレ・“ザ・シャーク”・シンドーナの行動に憤慨していた。
彼はシチリア生まれの悪徳銀行家で、1974年にロングアイランドのフランクリンナショナル銀行が破綻した際、その損失を補うためにバチカン銀行から推定1億ドルをだまし取った。
そしてその事が露見すると、シンドーナは刑務所送りを免れようと必、ロンシスヴァッレに10万ドルでアメリカ連邦検事、マンハッタン南部地区のジョン・ケニーとミラノの弁護士を殺すように頼んだ。
ロンシスヴァッレはこれを拒否した。
意外にもロンシスヴァッレは、「悪いことをしたら罰を受けねばならない」とのポリシーを持っていたからだ。
シンドーナはその後、米国とイタリアで有罪判決を受け、毒を飲んで自殺した。
また、ロンシスヴァッレは、麻薬の売買をしない義務のあるはずのマフィアによる麻薬売買にも嫌気がさしていた。
そのため、1976年の殺人事件で有罪判決を受けたロンシスヴァッレはすぐに寝返った。
わずか5年の懲役だったのにも関わらずだ。
連邦政府の証人保護局に保護された彼は、1985年、レーガン大統領直属の組織犯罪対策委員会の主席参考人となった。
彼はこのように発言したと記録されている。
「私はシチリアで育った。そしてアメリカの子供が野球に夢中になるように、私もマフィアに夢中になった」
しかし、結局彼はマフィアに向いていなかったようだ。
その後、ロンシスヴァッレは自殺したという噂や、整形して海外で暮らしているという噂があるが、真相は定かではない。