マフィアの裁判官part2

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マフィアグッズ専門店
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強盗

ポーリーは妻と一緒にモットストリートのヴィンセント・クラムバーの上の2ベッドルームアパートに引っ越した。

家族の話によると、彼は不思議なことに家賃を一銭も払っていなかったという。

1945年、ポーリーは、海外の負傷兵に送られるはずだったモルヒネの錠剤をマンハッタンの埠頭から盗む計画を立てた。

全員に「給料が入ったら、1ヶ月は身を隠せ。もし誰かが車やスーツ、靴などに金を使ったら、俺が直接始末してやる」と彼は言った。

彼は後にその積荷が50万ドル相当のものであることを知ることになる。

これは当時のアメリカ史上最大の麻薬強盗であり、1945年のニューヨークタイムズ紙の切り抜きで確認されている。

しかし、彼はこの一件では逃げ切れなかった。

レフティは1945年にトラックをハイジャックした罪で逮捕され、余罪が判明。

3万5千ドルを弁護士に費やし、北部ダネモラのクリントン矯正施設に3年間という減刑判決を受けた。

そして彼が出所した時、マフィア界にスターが誕生した。

裁判官

ラッキー・ルチアーノ

一般人が複数のマフィアに金を貸りると、しばしばマフィア同士の争いが起こり、次に復讐殺人が起こり、そしてファミリー間の争いが起こった。

レフティは、このような慣習をなくそうと考え、ラッキー・ルチアーノが作ったマフィアのボスの集まりであるコミッションを招集した。

ポーリーはボスたちにに、一度に何人から借金がある場合、一人の金貸しがすべての借金を引き受け、低い金利を交渉することを提案した。

今日、これは債務整理と呼ばれている。

これで、債務者は借金を返せるようになり、殺傷事件も避けられるようになった。

殺人が少なくなってから、ポーリーのストリート・スマートさは広く尊敬されるようになり、ボス達は金銭に関係のないことでも彼のところに相談に来るようになった。

ポーリーは、ボスたちにこう提案した。

「もし、ある男が誰かを消したいのなら、コミッションに自分の言い分をを提示しなければならないようにしよう。

しかし、もしコミッションが決定を下せない場合は、公平なジャッジが最終的な決定を下すことになる。

このレフティがである」

この時からレフティは、マフィアから「ザ・ジャッジ」というあだ名で呼ばれるようになった。

1957年、ニューヨーク州北部のアパラチンで開催された会議に出席しないよう、マフィアたちに警告したのも、レフティだった。

この会議は警察に摘発され、多くのマフィアが逮捕された。

親衛隊の交代

レフティは、下っ端のノミ屋になりすまし、FBIに目をつけられないようにしていた。

閉ざされたドアの中では、ボスのために用意されたテーブルの一番上座っていたが、公共の場では、彼は何の変哲もない存在だった。

彼のアパートや会員制クラブに踏み込んでも、何も出てこない。

彼の権力はニューヨークだけにとどまらず、ラスベガス、シカゴ、デトロイトをに及んだ。

旅行に行っては100ドル札を満載したスーツケースを持って帰ってきたと、彼の家族は回想している。

そして、全米自動車労組やAFL-CIOなどの組合とも交渉した。

それでも、レフティは血なまぐさいことを自分の手でやるのが好きではなかった。

しかし、例外もある。

グラネロというマフィアの幹部が、麻薬中毒の息子バーンズに盗みをはたらかせたことを話し合う会議の席でのこと。

彼が「ふざけるな」声をあらげた時、レフティは激怒した。

翌日、彼はバーンズの頭を撃ち、車の荷台に詰めた。

そして、グラネロに次のようなメッセージを送った。

「俺が仕切ってるんだ、それを忘れるな」

それからレフティは、ヴィト・コルレーオーネのかすれた声のモデルだと自称したことでも知られている。

マーロン・ブランドとは、彼が『オン・ザ・ウォーターフロント』の撮影準備中に知り合ったそうだ。

1980年代後半から1994年に75歳で亡くなるまで、レフティはセミリタイア状態であった。

彼は死ぬまでマフィアのご意見番であり続けた。

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