ナチスとマフィア

ナチスとマフィア

ナチスとマフィア

1930年代、アメリカを拠点とするナチズム勢力が登場していた。

その勢力の名前はドイツ系アメリカ人協会。

マフィアのブレーンであるユダヤ系のマイヤー・ランスキーは彼らに戦いを挑んだことで知られている。

マイヤー・ランスキー

マフィアとナチス

ドイツ系アメリカ人協会のリーダーであるフリッツ・クーンと妻エルザはニューヨークのアッパーイーストサイドで集会を開催した。

そこでランスキーは屈強な男たちを雇いこの集会を襲撃した。

公式文書には“マフィアがナチスの集会を襲った”との報告は一度しか登場しないものの、襲撃は頻繁に行われていたものと思われる。

ドイツ系アメリカ人協会

フリッツクーン

1940年、プロパガンダ活動調査議会の報告にはこう記されている。

「ドイツ系アメリカ人協会のメンバーはアメリカにおける不寛容、人種的憎悪、ナチズム、ファシズムを煽っていいる」

リーダーのフリッツ・クーンは30年代に組織内で権力を握り、1936年にはアドルフ・ヒトラーも認める有力者となっていた。

クーンは少なくとも70の組織を指揮しており、その中には詐欺組織も含まれていた。


“クリスチャンフロント”や“社会正義協会”などの胡散臭い名前の組織は金を騙しとってはドイツに送金するという役目を担っていたのだが、クーンは頑なに「福祉を促進することを主な目的とした政治グループ」と言い張っていた。

反ナチス

1939年11月3日、ランスキーや政府の“反ナチ活動家”の努力が実を結び、クーンは逮捕され有罪判決を受けた。

罪状は窃盗や偽造、詐欺など。
クーンと妻エルザは刑務所へ送られ、強制送還されるを待つこととなった。

さらに1941年12月の独米開戦を機にドイツ系アメリカ人協会は強制的に解散させられる。

そして刑務所に送られたクーンは思わぬ人物と出会うこととなる。。

マフィアの帝王

ラッキールチアーノ

1943年、クーンはダンネモーラ刑務所に移送された。

“シベリア”とあだ名される過酷な環境の刑務所でクーンは思わぬ人物と出会う。

彼の名前はチャーリー・“ラッキー”・ルチアーノ。

クーンを目の敵にしていたランスキーの親友と出会うとは何とも不思議な縁だった。

クーンとルチアーノはお互いに組織を率いる身であったことをきっかけに意気投合。
様々な情報を交換し合う仲になってゆく。

1945年、ルチアーノは第二次世界大戦中アメリカ海軍へ協力を行ったとして恩赦を受け釈放された。

このマフィアと海軍の協力は“オペレーションアンダーワールド”と呼ばれており、作戦においてルチアーノは港の警備やシチリア上陸の手助けをしたとされている。

この作戦の発案者はマイヤー・ランスキーだったものの、作戦中ルチアーノに細かなアドバイスをしたのはクーンと言われている。

決して相容れないと思われたクーンとランスキーが同じ目的の為に行動したとはなんとも不思議な話である。。

その後、クーンは1945年にドイツに強制送還され、1951年に55歳で病死した。

同年にイタリアへ強制送還されたルチアーノとは二度と出会うことはなかった。

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