初めて寝返ったマフィアのボス

初めて寝返ったマフィアのボス

クリーブランドマフィア

クリーブランドマフィアのボス アンジェロ・“ビッグアンジー”・ロナルドは、政府の証人になった最初のアメリカマフィアのボスでした。

マフィアの歴史を揺るがす一大事件の真相とはー!?

アンジェロ・ロナルド

暴かれたラスベガスのマフィア

1988年4月15日、ロナルドは米国上院で証言を行った。

内容は中西部のマフィアによるラスベガスカジノでのスキミングについて。

全米のマフィア事情に精通していたロナルドはマフィア内部情勢、運営方法までを暴露した。

ロナルドによると、クリーブランドマフィアのラスベガスへの進出はかなり昔から始まっていたという。

きっかけは堅気のビジネスマンのウィルバー・クラークにデザートインの建設するための費用を工面してやった事だった。

やがてクリーブランマフィアはラスベガスでも幅を効かせるようになり、他のファミリーと熾烈な勢力争いを繰り広げた。

1970年代には争いは収まり、ミルウォーキー、カンザスシティ、シカゴのファミリーと協力してラスベガスを仕切るようになっていたという。

ロナルドは裁判で麻薬密売についても証言し、6人の仲間を刑務所送りにした。

事の始まり

ロナルド家の歴史は古い。

ロナルドの父、ジョーはクリーブランドマフィアの最初のボスであり禁酒法時代に勢力を拡大した人物。

1927年に次のボスとなるサルヴァトーレ・トダロがジョーを暗殺。

すると2年後、ロナルドはトダロを射殺して復讐を果たしている。

その後まもなく、ロナルドはトダロの殺人で有罪判決を受け、終身刑を宣告されるが、上訴により無罪に。

その数年後には父の暗殺を仕組んだマフィアを殺害し多くのマフィアから尊敬されるようになった。

1940年代には正式なメンバーとなり、すぐに幹部へと出世した。

労働組合のマフィア

ロナルドは法廷で労働組合の腐敗についても証言した。

証言は多岐にわたり、

・チームスターズとマフィアの関連

・ラスベガスのカジノの購入資金をどのようにチームスターズが工面したか。

などについて言及した。

法廷を描いたイラスト

さらにロナルドはマフィアが衰えた理由も明かしている。

「マフィアは新入りをとらなくなった。

それでアイルランドのギャングがのさばるようになった。

ギャングは戦争と麻薬取引で勢力を伸ばしたがマフィアは出遅れた」

マフィアのロナルド

話は戻り1970年代。

マフィアとなったロナルドは頻繁にニューヨークを訪れるようになっていた。

目的は五大ファミリーとの外交。

特にジェノヴェーゼファミリーのアンソニー・“ファットトニー”・サレルノよく会い話し合いを持っていた。

ジェノヴェーゼ一ファミリーはコミッション(マフィアの全国会議)でクリーブランドマフィアの為に発言する。クリーブランドは見返りに便宜を図るという良好な関係を築いていたのだ。

1976年、ロナルドはアンダーボスに昇進。

1981年、ロナルドは当時ボスだったジェームズ・リカボリが投獄されたことを受け、クリーブランドマフィアのフロントボスに指名された。

全てが順調に進んでいたのだが。。

証言台に立つ

1983年、ロナルドはコカインの密売により逮捕、有罪判決を受けた。

FBIはロナルドに密告者となるよう促したが、ロナルドは断固拒否した。

しかし1986年、ルドルフ・ジュリアーニの働きかけによりロナルドは密告者となる事を決意。

1988年の春には法廷で証言するに至った。

正式にはフロントボスであったものの、「マフィアのボスが証言」というインパクトは計り知れないものだった。

その後ロナルドは刑期を短縮され釈放。

証人保護プログラムを受けつつもクリーブランドに戻り生活した。

その間ロナルドは『自分の死後に公開する』事を条件にドキュメンタリー番組にも出演していた。

最期は2006年4月1日、老衰で死亡した。

安らかな最期だった。

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