三分で学ぶ!サルヴァトーレリイナ
三分で学ぶマフィア暗黒史 サルヴァトーレ・〝トト〟・リイナ
目次

マフィア史上最も凶暴と言われたボスはどのように誕生したのでしょうか

シチリアの貧困と爆弾
リイナは1930年11月16日、コルレオーネの貧しい家庭に産まれた。
父は不発弾から金属を取り、売ろうとして爆死してしまう。 それほどまでにリイナの家庭は貧しかった。
1930年と言えばアメリカでは、ラッキー・ルチアーノ派が覇権を握る前年。
「ラッキー・ルチアーノが変えたイタリアマフィア」で解説したようにリイナは、ルチアーノのような新世代マフィアに影響を受け、やがてマフィア界の覇権を握ろうとすることに。
マフィアとしてのリイナのキャリア
初逮捕は19才の時。 喧嘩の末に相手を射殺して12年服役。
その後リイナはハングリー精神と凶暴さを買われて、ルチアーノ・リッジョの部下に。
ルチアーノ・リッジョはリイナと共に〝コルレオーネの大ボス〟ミケーレ・ナヴァラとその部下を皆殺しにし、コルレオーネの覇権を握る。
1960年代、リッジョとリイナはナヴァラ一派殺害の罪で逮捕。 しかし証人と陪審員を脅迫する事により有罪を免れた。
しかしさらなる罪で再逮捕されそうになり逃亡。
1958年のナヴァラ殺害の容疑でリッジョが逮捕、収監されるといよいよリイナはコルレオーネ派のボスとなった。
その後はアメリカマフィアとの麻薬取引で財を築き、私生活でも結婚の順風満帆だった。 逃亡中ではあったが。。
第二次マフィア大戦
リイナはいよいよパレルモ、そしてクーポラの支配に乗り出した。
リイナは容赦なくクーポラ内部の反リイナ派のボス ステファノ・ボンターテ、サルヴァトーレ・インツェリッロ等を蜂の巣にし、彼等に与するマフィアも皆殺しに。
最終的には100人を超えるマフィアが殺され、リイナ率いるコルレオーネ派がパレルモ、そしてクーポラを実質的に支配することとなった。
この時、トンマーゾ・ブシェッタはブラジルへ逃亡。
拡大するリイナ帝国
覇権を握ったリイナの影響力はパレルモ市長、銀行、政治家、さらには首相にまで及んだ。
さらにパレルモの建設ラッシュはリイナに大きな利益をもたらし、利益は政治家の買収、事業拡大に使われた。
しかし政府側も全員がリイナを野放しにしていたわけではない。
ピオ・ラトーレという書記官が、マフィアを取り締まる新法律を制定。
しかし議会の承認をなかなか得られず、施行には時間がかかった。
これに対抗してリイナは、1982年4月30日にラトーレを殺害。

事態を重く見たイタリア政府は、1982年5月、シチリアへカルロ・アルベルト・ ダッラ・キエーザ将軍を送り込み、マフィア壊滅を命じる。
キエーザ将軍はテロリストを相手にした事もある名軍人。
しかし同年1982年9月3日、リイナはキエーザ将軍をも殺害。
将軍もリイナの敵ではなかった。
だがキエーザ将軍殺害は波紋を呼び、この影響からピオーレの親法律が施行されるに至った。
クリスマスの大虐殺
トンマーゾ・ブシェッタが寝返り、マフィア大裁判が始まる。
多くのマフィアが逮捕されると、リイナは世間の目をマフィアから反らすためにテロを命じた。
1984年12月23日、ナポリからミラノへ行く列車が爆破され、282人が死傷。
さらにリイナはニューヨーク市長がファルコーネと通じていると疑い、アメリカマフィアへ彼の暗殺を依頼した。
結局、この依頼は断られたが、ジョン・ゴッティなど一部のマフィアはこれに賛同したとか。
この間にも裁判は進み、逃亡中のリイナにも2件の終身刑が言い渡される。
これに対抗してリイナは1992年5月23日、ブシェッタに証言を促したジョヴァンニ・ファルコーネを高速道路ごと爆殺。



その後も妻と子供と優雅な別荘暮らしを続けたリイナだったが1993年1月15日ついに逮捕。
リイナは捜査官に「私がリイナだ。おめでとう」と言った。
逃亡から実に24年が経過していた。
しかしリイナの勢いは収まらず、リイナの逮捕を報道したアナウンサーを爆殺。
その後もテロが相次いだ。

リイナ帝国の終わり
最終的にリイナには26の終身刑が下された。
リイナは刑務所内でも権力を振るい、自分の息子に後を継がせようとしたが息子はリイナの凶暴さばかりを受け継いでおり、複数の殺人で起訴されてしまう。
結局リイナは2017年11月17日に刑務所で亡くなるまで、マフィアを支配し続けた。
