チェスター・ウィーラー・キャンベル
スキャンダル
1975年2月、ミシガン州オークランド・レイクでパトカーと正面衝突しそうになった車がいた。
乗っていたのはチェスター・ウィーラー・キャンベルという男。
キャンベルは猛スピードで逃げたが、まもなく逮捕されてしまう。
その後、警察官は車の中から銃、ヘロイン、そして大量のノートなどを発見している。
このチェスターは、ジョン・ウィックのモデルといわれている人物の1人であり、
暗黒街では「死の天使」の名で知られていた。
また暗黒街の住人たちはキャンベルを「神話上の存在」と話したりしていたという。
そんなキャンベルはかなりの洒落者。
白いハットにシルクのスーツという上品な見た目と、洗練された立ち振る舞いをしていた。
しかも足しげく図書館に通い、語学を学ぶという知的さを持ち合わせていたようだ
とても殺し屋とは思えない私生活である。
そんな彼の仕事スタイルはスピーディーかつ正確だったようだが、詳細は謎に包まれている。
犯罪ジャーナリストのクリスチャン・チポリーニはキャンベルの仕事ぶりからこう評した。
「この男はまるで幽霊のようだった」
チェスター・ウィーラー・キャンベルとは
1930年、アメリカ・デトロイトでチェスター・キャンベルは誕生した。
10代で犯罪の世界に足を踏み入れ、2度の服役を経験。
1955年、彼は25歳の時に最初の殺人を犯している。
キャンベルは賭博場強盗の際に男を射殺し、懲役13年の判決を受けたのだ。
この13年がキャンベルを大きく変えることになる。
キャンベルは服役期間を通して刑法と法制度を学んだ。
また、マフィアたちとコネを築いたようだ。
そして1969年に釈放されたキャンベルは、再びデトロイトへ。
当時のデトロイトでは、古くから麻薬を裁いていたイタリア系マフィアと、新たに台頭した黒人ストリートギャングが麻薬密売の利権をめぐって争っていた。
ただし一概に二分はできない。
黒人の中には、イタリア系につくものもいたのだ。
キャンベルもその中の1人で、彼はイタリアマフィア側に接触すると、殺し屋として働こうと申し出た。
ただし、あくまでもキャンベルはフリーの殺し屋であり、マフィアの一派に属してはいなかったとされている。
当時、チェスターがよく訪れた飲食店のオーナーはこう振り返っている。
「彼はとても物腰が柔らかく、天気の話ばかりしていました。
でも、ギャング達はチェスターを見たらすぐにヤバイって顔をしていました。
彼は暗黒街で不吉の象徴とされていたんです」
1975年2月、冒頭で話した通りキャンベルは逮捕され、
車からは散乱した弾薬、装填された拳銃2丁、ライフル、ショットガン、ヘロインの入った封筒、警察用スキャナー、新聞の切り抜きのスクラップブック、ノート、大陪審の証言メモなどが見つかった。
まず警察の興味を引いたのは大陪審の証言メモだった。
これは一般には公開されることのないものなので、政府の関係者が漏らしたに違いなかったからだ。
だが、もっと警察を驚かせたのはノートの中身である。
ノート中身には
・人物の名前
・目撃された場所
・住所
・親しい人、
・金額が記されていたのだ。
記載されている人数は総勢300人。
リストにはギャングや判事などの名前が並んでおり、その内の10人は既に行方不明になっていた。
記されている金額は1200万円ほどで、これが報酬と思われます
どうやって詳細な個人情報を入手していたのか?
実はキャンベルは、政府の個人情報データベースに侵入していたようだ。
ただし、手口や方法は明かされていない。
それから、別のノートの後半には、以下の内容がまとめられていたという。
・クロロホルムを使った誘拐の方法
・マリファナの系統の見分け方
・マフィアに金を借りている裁判官・検察官のリスト
波紋
こののち、大陪審の証言を漏らしたのは警察官たちであり、彼らが麻薬取引を行っていると判明。
1972年12月に機動隊が警察署を急襲し、16人を逮捕している。
すると芋づる式に市長や裁判官、警察官の半数が加担していると判明。
大スキャンダルとなった。
一方、逮捕されたチェスターは殺人罪やヘロインの所持で裁判にかけられることとなる。
そんな時、服役中のジェームズ・リー・ニュートンという殺し屋が、キャンベルとの関わりをほのめかせ始めた。
これが事件解明の糸口になるかと思われたのだが、間もなくジェームズは刑務所のジムで喉を切られ、まぶたに十字架が刻まれている状態で発見されている。
これは明らかに、「話したら命はない」という周囲の者へのメッセージであった。
またチェスターの弁護士は記者会見を開きもっと直接的なメッセージを送った。
『チェスターは刑務所の中に居ても仕事ができる、、冗談さ』
それから一部の仕事熱心な警察官は捜査の末にこんな見解を示している。
「ヒットマンのための学校があり、チェスターもその一員であると思われる」
チェスターが先生なのか、生徒なのか、
はたして学校が実在したのかは謎のままだ。
最終的にキャンベルは武器所持で7年半の実刑判決を受けたが、殺人容疑や汚職がらみでは無罪を勝ち取っている。
これは証言しようとした殺し屋が怪死したためであり、その理由は現在に至るまで解明されていない。
キャンベルの最期
収監された後、キャンベルは有罪判決を不服として控訴。
助けてくれなかった政治家や警官たちに文句をたれ始めたという。
それが大物の怒りや不信感を買ったのかもしれない。
1984年、出所して7ヵ月経った頃。
通りを歩いていたキャンベルの頭を銃弾がかすめた。
彼は素早く身を隠したが無事ではなく、3発が足に命中していた。
1987年7月、今度は西デトロイトのアイヴァンホーにある自宅の外で再逮捕された。
警察はキャンベルをマークしていたのだ。
彼の車と家からは多くの銃、マリファナ2袋、ヘロイン、爆発物、1万ドル、変装道具、ハイテク監視装置などが時発見されている。
また、彼の所持品には、22口径の弾丸を1発発射できるように改造されたペンもあった。
これらの所持で逮捕され今度は40年の刑が言い渡される。
しかし、彼はその少し前にC型肝炎にかかっており、刑務所内で健康状態が悪化。
2001年5月に死亡した。
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