ニッティ暗殺指令
ニッティ暗殺指令
映画「アンタッチャブル」のイメージが強いフランク・ニッティ。
現実の彼も映画ばりにタフな一面を持っていました。
事件のはじまり
1931年4月、アントン・J・サーマックがシカゴ市長に選出された。
シカゴ犯罪委員会を率いるヴァージル・W・ピーターソンはサーマックについてこう話したことがある。
「現在市を支配している強力な政治組織は、儲かる賭博ビジネスからその力の多くを得ていた」
つまり市長はシカゴマフィアの力で、町を支配しているというわけである。
それからピーターソンは、サーマックを「政治力の源としてのギャンブルに注意を払う人物」と評した。
その頃、シカゴのノースサイドでは、テッド・ニューベリーが、ノースサイドの賭博を仕切ろうと暗躍していた。手を広げているところであった。
ニューベリーは、アル・カポと争ったネジョージ・”バグズ”・モーランの元仲間だった男。
元というのは、聖バレンタインデー虐殺事件をきっかけにカポネ側に寝返った
からだ。
そんなニューベリーの障害となったのが、組織のボス フランク・ニッティ。
カポネ無きあとボスとなったニッティは、元敵対組織のニューベリーを信用していなかった。
そのためニッティは、ニューベリーが賭博ビジネスを仕切るのを阻止しようとしていた。
暗殺依頼
1932年12月19日の午後、この障害を取り除くために、ニューベリーは1万5千ドルを支払った。
支払った相手とはサーマック市長。
サーマック市長はニッティよりもニューベリーが扱いやすいと考え、彼を逮捕させるという依頼を受けたのだ。
程なくして、警察のハリー・ラングとハリー・ミラーが、ラサール通りのラサールワッカービルにあるニッティの本部を訪れた。
本部には、ニッティとボディーガードのルイス“リトル・ニューヨーク”カンパーニャを含む6人の仲間がいた。
刑事達は彼らは両手を上げるように命じる。
ところが、ニッティは、とっさに紙切れを口に詰め込み、それを噛み始めた。
ラングは、その紙に何かしらの秘密が書かれているかもしれないと思い、取り押さえようと飛びかかった。
ラングの証言によると、だがニッティはポケットからピストルを取り出し発砲、ラングの左手に怪我を負わせた。
対してラングは5回、反撃。
うち3発をニッティに命中させた。
弾丸はニッティの首の右側と右胸に当たり、3発目は脊髄の近くで背中に入りこんでいた。
真相はどうあれ重傷を負ったニッティは、ブライドウェル病院に運ばれた。
朦朧とするニッティは手術室で、「ああ、神様、助けてください」と叫んだという。
それから落ち着いたニッティは、義父のガエタノ・ロンゴ医師を指名し、助手を依頼した。
ニッティ死す。。?
午後遅く、ニッティの希望で聖カジミール教区のジョン・ピーターソン神父が病院に呼ばれ、最後の儀式を執り行った。
また、新聞はニッティの状態を「衰弱」「瀕死」と報じた。
翌日、ニッティまだ危篤とされていたが、ロンゴ医師のいるジェファーソンパーク病院へ転院。
これは少しでも安心するためだっという。
他の6人の仲間は尋問のために、警察署へ連行された。
カンパーニャ、ルイス・スキアボーン、ジョン・ヤリオ、チャールズ・マクギー、マーティン・サンダース、ジョセフ・パリージョの6人だ。
彼らは、事務所に銃はなかったこと、ニッティは何の抵抗もせずに撃たれたと訴えた。
事務所にいたことに関しては、ある者は賭けをするために立ち寄ったと言い、他の者は賞金を受け取るために行ったと話した。
また、マクギーは、ニッティの妻の運転手だと名乗ったそうだ。
刑事達は口を割らない6人に手を焼いていた。
そこである人物に尋問を依頼することに。
その男は、シカゴマフィアと因縁深い、エリオット・ネスであった。。