第一次世界大戦と禁酒法
第一次世界大戦と禁酒法
1919年1月「アルコールブルース」という曲が発表された。
歌詞にはこう綴られている。
「渇きを癒すことが生き甲斐だ。渇きが癒えるのなら私は塹壕で永遠に生きようがかまわない。私が今欲しているのはジンジャーエールではなく、本物だ」
そう、これは禁禁酒法に苦しむ帰還兵の曲なのだ。
2番目ではこう歌われている。
「私はとても喉が渇いていて死にそうだ。私は蒸発する。それくらい乾いているんだ」
この曲が示すように酒は人々に無くてはならないものだったのだ。
世界の禁酒
アメリカが第一次世界大戦に突入するまでにも禁酒派は多くの州で禁酒を可決していた。
彼らはアルコール乱用の影響によって子供達が傷つけられていると主張。
しかし酒を飲む多くの政治家は冷ややかな目で禁酒活動を見ていた。
状況が変わったのは第一次世界対戦が始まってから。
禁酒派は戦争をだしに「節制して愛国心を示し、兵士を応援しなければ」と主張し多くの支持を集めていった。
そして禁酒法が施行されると世界は一変する。
コーヒー、紅茶、ミルクよりも安価で販売され牧師や妊婦も飲んでいたアルコールは違法に。
値段は何倍にもはねがった。
禁酒法と人種差別
禁酒派は次第に酒を飲む者はアメリカ人ではないとの主張を始めた。
標的とされたのはドイツ系、アイルランド系、ユダヤ系のアメリカ人。
第一次世界大戦中には反ドイツ感情から禁酒法を支持する人々が増え、人種差別に一層拍車をかけた。
実際に醸造所の多くはドイツ系アメリカ人によって運営されており、彼らは母国に戦争費用を送っていると避難され廃業に追い込まれたのだった。
各国の禁酒法
一方ドイツも禁酒法を施行していた。
蒸留酒を製造するために穀物や食品が使用されるのを防ぐためである。
ドイツの禁酒法は第一次世界大戦が終わると共に廃止された。
禁酒法を施行していた国は他にもある。
1914年、戦争中のロシアはウォッカの製造と販売を禁止する法律を可決している。
スウェーデンは1917年に配給制度を確立し禁酒に、イギリスは1915年に禁酒法を施行している。
マフィアの時代へ
様々な思惑が入り交じった結果、アメリカの禁酒法は世界にも類をみないほど無意味で長期にわたるものとなった。
ご存じの通りこれはマフィアの活躍を助けることになる。
あまり知られていないが禁酒法と第一次世界大戦はもうひとつマフィアに贈り物を送っている。
第一次世界大戦中、ジョン・トンプソン将軍は“トンプソンマシンガン”を開発した。
トンプソンマシンガンは非常に強力な半自動ライフルだったが、活躍の前に戦争は終わってしまう。
そこで1920年代にトンプソンマシンガンは一般に販売され始めた。
よく知られるようにマフィアやギャングはトンプソンマシンガンの素晴らしさに気付き抗争に使用し始めた。
密造酒ビジネスとトンプソンマシンガン。
マフィアのアイコンとも言える二つの要素は第一次世界大戦の産物だったのである。