ドラム缶詰めの歴史

ドラム缶詰めの歴史

映画でよく見かけるドラム缶詰めにされた遺体。

その先駆けとなった事件はなんなのか?

なぜマフィアは遺体をドラム缶に詰めるのか?

そんな謎を解明していきます。

史上初のドラム缶事件

ドラム缶事件のルーツとなるのは、1918年4月に起こった事件だった。

ニューヨーク、ハドソンバレー鉄道の貨物倉庫で働く労働者が、”Dr. Jennings, New York City宛て”と書かれた木の樽を発見。

その樽からは、ひどい悪臭が漂っていたという。

樽を開けてみると、そこには内臓を抜かれた女性の死体があった。

その樽はシカゴから運ばれてきたとので、2ヵ月前にヘンリー・ジャンペルツという男から受け取ったことを従業員がが覚えていたのです。

捜査の結果、遺体はオランダ移民のソフィー・ワーナーさんだと判明。

この事件は「樽殺人事件」と名付けられセンセーショナルに報じられた。

後に逮捕されたジャンペルツは、自分の愛人であるソフィーが首を吊ったと主張。

その責任を問われることを恐れた彼は、彼女の手足を切断し、手術器具を使ってほとんどの臓器を取り出し、遺体を樽に詰めて塩で覆い、コンテナごとニューヨークへ運んだそうだ。

彼は有罪判決を受け、死刑を宣告されたが、控訴審で無罪を勝ち取った。

つまり、本来遺体を樽に詰める目的は、遺体を半永久的に保存するためだったのだ。

20年後の1878年にも同じような事件が起こった。

第二の樽殺人事件の被告であるエドワード・ラインハルトは、裁判で妻の死因について、ジャンペルツと同じ説明をした。

少し前後するが、1877年にも事件が起こっていた。

ニューヨーク州スタテン島のシルバーレイク地区の道路の近くに、女性の死体が入った樽が放置され、その足が切り落とされているのを通行人が発見していたのである。

しかしこの事件は未解決に終わった。

1890年にも同様の事件が起こっていた。

ニューヨーク警察は、デンマークから客船で到着したばかりのアレキサンダー・フィリップセンを逮捕した。

アメリカの税関で、乾燥セメントを詰めた樽の中から男の切り刻まれた死体が発見されたからである。

さらに取り調べの結果、彼は以前にも遺体を樽につめ放置していたことがわかった。

初めて職業的な犯罪者が関与したのは、1901年11月の事件だった。

シカゴ警察は、ウェスタン通りの空き地に捨てられた小麦粉の樽から、イタリア人のアントニオ・ナパリアの切り刻まれた死体を発見。

翌年、イタリア人2人が強盗目的で彼を殺害したとして有罪判決を受けた。

マフィアとドラム缶

一方、マフィアが初めてドラム缶詰めのような事件を起こしたのは、1903年のことであった。

ジュゼッペ・”クラッチ・ハンド”・モレロはマフィア・ファミリーを率いていた。

ジュゼッペ・モレロ

1903年4月11日頃、ロウワーマンハッタンのイーストサイドにあるイースト11番街を歩いていた女性が、縁石の横に高価なオーバーコートで上部を覆われた木製の砂糖樽が立っているのに出くわした。

女性がコートを手に取ると、中に血まみれの男の顔があり、彼女は悲鳴をあげた。

刺され、首を切られ、服を着たまま狭い空間に押し込められた被害者は、イタリア移民のベネデット・マドニアだった。

ニューヨークの刑事たちは、マドニアがマフィアのアメリカ支部であるモレロ・ギャングに殺されたことを知ることになる。

モレロ一味は、通称ジュゼッペ・クラッチハンドという男に率いられ、イーストハーレム、マンハッタンからブロンクスにかけての地域で、殺人、恐喝、誘拐、偽造を繰り返していた。

マドニアの遺体の状態は、残虐行為に対するギャングの意志を反映していた。

犯人は彼の性器を切り落とし、口の中に押し込んだ。

どうやらモレロ達は、樽がゴミとして収集されると思っていたようだ。

ちなみに殺害された最も有力な説はこうだ。

マドニアは投獄された義兄(モレロ一味の一員)の刑事弁護のために、クラッチ・ハンドに金を送った。

しかし、モレロ達はその代わりに現金を盗んだ。

マドニアはバッファローからモレロに会いに行き、モレロに殺されゴミとして出されたのだった。

もちろんゴミ収集を目的としていないケースも多い。

2001年の『NYPD: A City and its Police』では、専門家が樽に詰める理由をこう解説している。

1920年代当時のマフィアの犠牲者はたいてい重しをつけて川に落とされるか、樽に入れられて他の都市に運ばれた。

しかし、それが情報提供者であった場合は、他の者への警告として、体を切断され、目立つ場所に放置されることが多かったようだ。

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