ナチス対マーダーインク
1937年、米国に移住した約1200万人のドイツ人のうち500人に1人が、親ヒトラー集団組織「ドイツ・アメリカンバンド」のメンバーだった。
彼らはニューヨークで大規模な集会を開き、腕に鉤十字をつけた茶色の制服で、アッパーイーストサイドの通りを闊歩していた。
このデモはニューヨークのユダヤ人社会を恐怖に陥れた。
ユダヤ人の多くはヨーロッパに親戚を持ち、ドイツからの報道に警戒心を強めていたからだ。
元米国下院議員で判事のネイサン・デビッド・パールマンもナチスに危機感を抱いていた。
そしてある晩、マンハッタンのサロンでカクテルを飲んでいる時、パールマン判事はあることに気がつく。
「ナチスに必要なのは、奴らのケツを掘ることだ」
パールマンは、この “尻叩き “を誰が行うべきかを正確に把握していた。
彼はユダヤ系ギャング、マイヤー・ランスキーに電話をかけ、「ナチを殴りたい奴はいるか?」と聞いた。
そこでランスキーこう答えたという。
「いますよ、判事”。
失礼だが、殴るよりもっといい方法があるのはわかってるか?
私はブラウンズビルの仲間を知っている。
マスコミの連中はマーダー・インクと呼んでいる」
マーダーインクはランスキーが組織した殺し屋の集団。
殺害した人数は800以上とも言われている。
パールマンはその申し出を断った。
その代わり、彼はランスキーに、ナチスがすぐに忘れることのないような教訓を教えることを望んだ。
「彼らを殺す以外のことをやってほしい 」
ナチスの破壊工作
ドイツ系アメリカ人の目的は、ヒトラーの計画をアメリカ国内で推進することだった。
1930年代を通じて、様々なナチス組織が武器や弾薬を蓄え、道路や発電所の破壊工作を計画し、国内にナチス空軍を作るために飛行機を購入することさえ発見さえしていたという。
作戦はアメリカのドイツ系アメリカ人によって自発的に始められたが、アドルフ・ヒトラーはその存在を知っており承認していた。
ニューヨークのドイツ人の多くが住んでいたヨークビルでは、頻繁に集会やパレードが開催されていた。
4月20日のヒトラーの49歳の誕生日を祝って、ドイツ・アメリカンバンドはカール・シュルツ公園からヨークビル・カジノまでの祝賀行進を計画。
しかしカジノで彼らを待っていたのは、ランスキーと、マーダー・インクのメンバーだった。
メンディ・ワイス、バグジー・ゴールドスタイン、ハリー・シュトラウスなどである。
戦争
マーダーインクは3つのグループに分かれた。
外では、野球のバットとキューを持った5人のギャングが逃げるナチスを叩こうと待ち構えていた。
2階では、5人が上から攻撃するつもりだった。
マーダーインクは三方からの攻撃を準備していたのだ。
さらに、会場には3,000人以上のナチがいたが、ランスキーは対抗してフリーのチンピラを同じ人数雇っていた。
激しい乱闘の中、バグジーは口うるさいナチを殴った後、2階の窓から投げ捨てた。
彼は一命を取り留めたが、足は粉々になっていたとか。
決着とその後
戦いが終わったとき、ナチスのメンバーは血だるまになっていた。
頭を殴られて意識を失った者もいれば、手足の複雑骨折をした者もいた。
しかし、死亡した者は一人もいなかったという。
一方、マーダーインクのメンバーは夜の闇に紛れ込み、誰一人逮捕されることはなかった。
この戦いを知ったラッキー ・ルチアーノは「イタリア人にも手伝わせる」と申し出たという。
しかしランスキーは、「これはユダヤ人の仕事だ」と説明した。
ランスキーは戦果に満足していた。
次の会合はホワイトプレーンズで予定されていた。
しかし、集まる予定だった1000人のうち250人しか参加しなかったからだ。
次の集会は警察の警備があり、マーダーインクは乱入することは叶わなかった。
それでもランスキーは地元のユダヤ人の二人を買収し、コルク付きのガラス瓶を投げ込むように依頼。
最初の演説が始まると、一人の少年が「ヒトラーは一球入魂だ!」と叫び、二瓶をステージに向かって投げつけた。
途端に悪臭が噴出し、観客は逃亡。
議事が再開されるころには、さらに多くの席が空席になっていた。
ランスキーの脅迫戦争はうまくいっていたのだ。
次回「ナチス対シカゴマフィア」へ続きます