シチリアの晩祷の夜
“シチリアの晩祷の夜”、“シチリアの晩鐘”と呼ばれる事件をご存知ですか?
“シチリアの晩祷の夜”とは
1931年9月10日、ボスの中のボス、”カポ・デ・トゥッティ・カポ “ことサルヴァトーレ・マランツァーノがパークアベニューのオフィスで暗殺された。
首謀者はラッキー・ルチアーノ。
ルチアーノはアメリカ生まれの男で、シチリアから渡ってきた老マフィアと相容れずにいた。
そしてこの日、ルチアーノは全国に散らばる仲間達に命を出し、マランツァーノに与するマフィアのボス達 40人を一夜のうちに一掃したと言われている。
これが“シチリアの晩祷の夜”である。
しかし、ここである疑問が浮かんでくる。
一夜にして死んだ40人のボスとは、誰なのか。
これほど大規模な暗殺作戦なのに、なぜ広く知られていないのだろうか。
ラッキー・ルチアーノの言い分
殺しを命じた当の本人であるラッキー・ルチアーノは後に、このように語っている。
「マランツァーノに与するものは皆殺しとの計画だったが、それは不要だと伝えた。
マランツァーノに与するものが殺された“シチリアの晩鐘事件”というのはまったくのデタラメだよ。マランツァーノが死ぬまでに何人かの奴が殺されたが、50人が殺されたという事実はない。
あの夜殺されたのは、コニーアイランドのレストラン ヌオーヴァ・ヴィラ・タンマロのオーナー、ジェラルド・スカルパトだけだ」
ちなみに、この気の毒な男は、1931年4月15日にジョー・”ザ・ボス”・マッセリアが殺されたレストランのオーナーである。
スカルパトは麻袋を被せられてから絞殺され、ブルックリンの廃車に投げ込まれていた。
このルチアーノの言い分は正しいのだろうか。
仮に40人を殺していたとして、「その通りだ」とルチアーノが言うとは考えられない。
バートンの証言
シチリアの晩祷の夜を最初に広く知らしめたのは、キングス郡の地方検事補 バートン・ターカスだ。
彼はマーダー・インクのメンバーの起訴に注力した人物で、自著の中でこう述べている。
「マランツァーノが殺された日、ラッキーの命令に従って、その日から48時間の間に、アメリカ中の30人から40人ほどのマフィアの古いグループのリーダーが殺された」
検事は適当な作り話を綴ったのだろうか?
いや、実はこの話にも元ネタがあったのである。
バラキの証言
1963年、ジェノベーゼファミリーのメンバー ジョセフ・バラキはファミリーを裏切り、マフィアの内幕を告白した。
バラキの証言は「バラキ・ペーパーズ」という文書にまとめられている。
そこにこんな一文がある。
「マランツァーノの殺人は、粋で物腰が柔らかく冷たい目のチャーリー “ラッキー “ルチアーノが計画した複雑で丹念に実行された大量殺戮の一部だった。
マランツァーノが死んだ日、彼と同盟を結んでいた40人ほどのコーザ・ノストラの指導者が国中で殺された。
事実上、彼ら全員がイタリア生まれの古株で、若い世代が権力を求めて排除されたのだ」
ただし、バラキの言う指導者とはボスに限らず、幹部や正規メンバーも含まれていたようだ。
尾びれ
1975年、シチリアの晩祷の夜は大きくアップデートされた。
研究家のデービッド・チャンドラーは、書籍にこのように記した。
「犠牲者は60人であった。
犠牲者の一人一人が、毎日のパターンを確立するために監視下におかれたに違いない。
その60人の犠牲者のために、殺し屋チームを組織し、計画を裏切らない殺し屋を選ばなければならなかった。
その日が来たら、殺し屋をターゲットに送り込まなければならない。
マランツァーノが殺されたというニューヨークからのゴーサインを、各チームに伝えるための通信連絡係も用意しなければならない。
少なくとも300人以上がこの作戦に加わっていたはずだ。
しかし、この作戦は順調に進み、粛清の気配が警察に伝わるまで1年以上を要した。
粛清が静かに進んだ理由の一つは、多くの場合、死体が発見されるまでに数日、数ヶ月を要したことである。
死体が発見されないこともあった」
段々と話が大きくなっている気もする。
さて、真実はどこにあるのだろうか?
この話を最初にしたのは誰だったのだろうか?
明かされた真実
1976年、ケンタッキー大学の歴史学の教授、ハンバート・S・ネリによって、この論争に一応の終止符が打たれた。
ネリは、全米人文科学基金とケンタッキー研究財団の助成を受け、14都市を訪れ、マフィアの犯罪活動について徹底的に調査。その成果を『The Business of Crime: Italians and Syndicate Crime in the United States』という本にまとめた。
“シチリアの晩祷の夜”の起源はこうである。
1939年、ニューヨークのギャング、ダッチ・シュルツの元弁護士ディクシー・デイヴィスは、コリアーズ誌に、シュルツの部下エイブ・”ボー”・ワインバーグがこの殺人について相談してきたと語った。
デービスによると、マランツァーノの殺人に参加したワインバーグは、この殺人が全国的な老マフィアへの攻撃の一部だった。
「全く同じ時刻に国中で90人が殺害された」
寓話の由来は分かったが、90人いるといわれる殺人事件の被害者は誰なのか。
ネリはそこも調べてくれた。
9月10日にニューヨーク地区で3人の男性が殺害されていた。
ハッケンサック川でサミュエル・モナコとルイス・ルッソの縛られた死体が発見され、ブロンクスの路上でジェームズ・ラ・ポレが殺されていた。
マランツァーノとスカルパートに加えて、この5人がニューヨークの粛清分担であったようだ。
ネリは、ボルチモア、ボストン、シカゴ、クリーブランド、デンバー、デトロイト、カンザスシティ、ロサンゼルス、ニューオリンズ、フィラデルフィア、ピッツバーグ、サンフランシスコの新聞をも徹底的に調査した。
1931年9月、10月、11月の3ヶ月間の新聞である。
彼の調査結果によると、この期間に発生した殺人事件のうち、粛清と関係があると思われるものはたった一つで、それはデンバーで起こったものであった。
つまりシチリアの晩祷の夜があったという証拠は見つからなかった。
しかし嘘とも言いきれない。
ボー・ワインバーグがこの話をした動機は分からないままだ。
事件から数年後、ボー自身もダッチ・シュルツによって粛清された。
彼はセメントで足を固められ、イーストリバーに投げ捨てられた。
もしかするとボーが殺されたのは、シチリアの晩祷の夜について話してしまったからなのかもしれない。