知られざる大物マフィアpart2
過小評価されすぎなマフィアpart2
ミッキー・ダフィー
ミッキー・ダフィーは、禁酒法時代のフィラデルフィアギャングのボスだった人物。
彼はポーランドからの移民の息子で、本名はマイケル・J・キューシック。
そのため英語に加えポーランド語を話し、読むことができたと言われている。
1908年、20歳の時には既に強盗、暴行、窃盗、不法侵入、空き巣、殺人未遂など28の全科を持っていた。
1916年には窃盗で逮捕。ニューヨークの郡刑務所に収監される。
ちなみに捕まるまで一年もの間、逃走を続けていたそうです
1919年には、暴行、武器の携帯、窃盗目的の暴行の罪で、ペンシルバニア州の刑務所に3年間服役した。
1922年、出所したダフィーは、過去に懲りることなくビジネスを再開。
すぐにまた強盗と暴行傷害の容疑で逮捕されたが、運よく釈放された。
1924年には、違法な酒の所持、宝石強盗、警察官への暴行などの容疑で、さらに逮捕歴が増えることに。
やがてダッフィーは窃盗はリスクが高く、酒の販売の方が効率よく儲かると気がつく。
さっそくカムデンとエッグハーバーの違法ビール工場を買収。
製造したビールをニュージャージー州とペンシルバニア州で販売し始めた。
その年、彼はビール販売の利益を元手に、フィリーのダウンタウンに、キャバレー「クラブ・キャディックス」をオープン。
アメリカでも有数の密売人として悪名を轟かせた。
次にダフィーは新たなビジネスに乗り出す。
パートナーのハリー・マーサーとともに、違法な酒を運ぶトラックの運転手をターゲットにして、子分に襲われないための「保護費」を強要する恐喝を始めたのだ。
こちらも成功をおさめ、ダフィーはギャングからも恐れられる存在となってゆく。
強襲
1927年2月25日、ダフィーは、妻のエディスとボディガードを連れてフィラデルフィアのナイトクラブへ。
三人がクラブを出たところ、大型のセダンが猛スピードで現れ、その中にいた男がトンプソン・サブマシンガンをダフィーに向けて乱射した。
ボディーガードはその場で死亡クラブのドアマンも重傷を負った。
幸いにダフィーの妻は、銃撃の前に車に乗り込んでおり無傷だった。
瀕死の状態で病院に運ばれたダフィーは奇跡的に一命を取り留める。
一方5発の弾丸を受けたダフィーは瀕死の重傷ながらも、病院に担ぎ込まれ一命をとりとめた。
九死に一生を得たダフィーは、一線を退くことを決意。
スペインに6万5千ドルの別荘を購入し引っ越す。
この別荘は現金一括払いで購入したそうです
別荘には、豪華なインテリア、サボテンの庭、最新の電気式警報システムなど工夫が凝らされていた。
また、大型の新車を何台も購入、オウムを飼う、警備員を雇うなど、ダフィーは様々な方法で心の安らぎを得ようとしていた。
引退に向けて
1930年の時点で、ダフィーは週に1万ドルの収入があり、銀行には50万ドルの預金があった。
意外だが連邦税もちゃんと払っていた。
それでもダフィーは、前科者でありギャングであることに不安を感じ、法を守る社会の中で更生しようともがく。
まずは慈善団体や教会への寄付活動を始め、堅気の社会に受け入れられようとした。
さらに孤児院に行き、養子縁組を申し出ることに。
しかし前科が邪魔をし、養子縁組は断られてしまった。
ダッフィーの最期
1931年の夏のある日、ダフィーは警察に、自分の家の周りに見知らぬ人がうろついているのを見たと話している。
その頃からダフィーは警備を強化し、不要不急の外出は控えるようになった。
同年、酒の密売で起訴されたダフィーは、渋々、帰国することに。
彼はアトランティック・シティのアンバサダー・ホテルにチェックインし、重装備のボディガードを2人雇って、一人では一歩も外に出ようとしなかった。
また、ダフィーは緊張をほぐすためにモルヒネを注射していたという。
1931年8月30日、ダフィーはホテルで弁護士のベンジャミン・ゴルダーと会い、9月14日に予定されている第一回の公判について話し合った。
その日の昼下がり、ダフィーはホテル4階のスイートルームで部下のサミー・グロスマンとアル・スカリと昼食を共にする。
その後、彼はスイートルームのベッドに潜り込んで昼寝をした。
しかし、二人はそっと部屋に戻ってきて、寝ているダフィーの頭に数発、発砲した。
即死だった。
スペインの豪邸で行われたダフィーの葬儀には、約3,000人の見物人が集まった。
事件のその後
1935年、ペンシルバニア州弁護士協会と警察が事件を再調査。
その中で、フィラデルフィア警察のジェームズ・ライアン刑事は、サミー・グロスマンとアル・スカリが、ビール商売を奪うにボスを殺したと結論づけた。
しかし、事件直後にグロスマンとスカリも何者かによって射殺されており、それ以上の追及は不可能であった。