ラッキー・ルチアーノの遺言 紹介
ラッキー・ルチアーノの遺言
今回は「ラッキー・ルチアーノの遺言」を紹介していきます。
こちらの書籍は近代マフィアの生みの親とされるルチアーノの伝記本。
本の内容はルチアーノが映画プロデューサーのマーティン・A・ゴッシュに口述したものとされているが、真相は定かではない。
また、他のマフィアの証言と食い違う箇所があることから、現在も議論の対象になっている。
とはいえ、発売当初、「ラッキー・ルチアーノの遺言」は話題作となり、パーバックの権利は80万ドルの値が付けられている。
完成までの経緯
1962年、ルチアーノは自分の死後10年間出版を待つことを条件に、己の人生をゴッシュに伝えた。
そして10年後の1972年、ゴッシュはフリーランスのライターであるハマー氏に本の執筆を依頼。
約1年後にゴッシュ氏が心臓発作で亡くなる直前に「ラッキー・ルチアーノの遺言」は完成した。
ハマーはゴッシュから協力依頼を受けたとき、まず詳しく事情を尋ねたという。
そして、ルチアーノから直接聞いた内容だという事を確信し執筆に取り掛かった。
しかし、どのようにハマーは確信を得るに至ったのだろうか。
リトル・ブラウン社でルチアーノの本を編集したロジャー・ドナルド氏によると、同社はルチアーノと親しかった友人や親戚5人からの宣誓供述書2通と署名入りの手紙3通を持っており、その中にはルチアーノがゴッシュに自分の人生を語ったと記されているという。
ドナルド氏は、この5人のうちの何人かが、この本の印税を分け合っていることを確認したそうだ。
「しかし、お金を受け取ったからといって、その人が真実を語っていないとは限らない」ともドナルド氏は語った。
ハマーによれば、5人の中にはルチアーノの2人の姉妹、元愛人のアドリアナ・リッツォ、そして親友のロザリオ・ビタリティが含まれているという。5人目の名前は明らかにされていない。
この4人のうち、当時70歳だったビタリーティだけがインタビューに答えている。
彼はルチアーノがゴッシュと話していた時、イタリアにいたと言い、「彼(ゴッシュ)の言うことはすべて真実だ」と話した。
また、ヴィタリーティは、ルチアーノがゴッシュに自分の人生を語っていると明言したかどうかを尋ねられ、”間違いない “と答えた。
ちなみに彼は、本の印税の5%と映画の売り上げの5%を受け取っている。
幻のテープ
「ラッキー・ルチアーノの遺言」はインタビュー時の音声データに基づいて執筆されたという説もある。
出版前の宣伝にはそう書かれていたし、週刊誌『パブリッシャーズ・ウィークリー』の11月18日号に掲載された全ページ広告には、次のように書かれている。
「生前、チャールズ・’ラッキー’・ルチアーノは、自分の年金と権力をマフィアに奪われたことへの報復として、自分の話をマーチン・ゴッシュに口述した。そのテープは10年間、政府もマフィアも警察も、誰も手が出せない金庫に閉じ込められていた。ゴッシュは『戦争の朝』の著者であるリチャード・ハマーと協力して、これまでに書かれた中で最も明らかなアメリカのギャングについての記録を、”ボスの中のボス “自身の言葉から作成したのである。
しかし、ドナルドとハマーは、ルチアーノが語ったテープは実際には存在しないことを認めている。
ハマーによれば、「ルチアーノと思われる男のテープが1本ある」が、その内容はほとんど「ナポリの天気」についてのものだという。
また、オリジナルのメモはゴッシュ氏の未亡人であるルシール氏が所有しているという。
そこでマスコミがラスベガスに在住していたゴッシュ夫人を見たいと頼み込んだが、夫人は「メモは破棄した」と答えた。
「夫がハマー氏のためにテープを作って、その中でメモの内容を話していたので、その後はメモそのものを保管する必要はないと思った」とのことである。
ピーター・マーズの見解
「バラキ」など伝説のマフィア書籍を数億手掛けてきたマーズはこう語る。
「ルチアーノがテープレコーダーを持っている人と話すなんて、よっぽどのことがあったんだろうね。彼のような立場の人間が、そんなことをするだろうか」
ピーター・マース氏によると、ルチアーノの後継者でマフィアのボスだったフランク・コステロは、1973年に亡くなる直前に同じようなことをしていたという。
「コステロは私が執筆する予定の回顧録のために、自分の人生をテープに語り、検証書類に署名することに同意した」
しかし、コステロの死によって、この共同作業は中断され、マーズ氏はコステロが本にするには十分な話をしなかったので、このプロジェクトを断念したそうだ。
そして肝心の「ラッキー・ルチアーノの遺言」について、詳しく聞かれるとマーズ氏は、「組織犯罪全般、特にルチアーノについて、入手可能なすべての出版物をほぼ正確にまとめたもの」だと述べた。
さらに「バラキ」と「ラッキー・ルチアーノの遺言」は酷似している、しかし「バラキ」が出版されたのはルチアーノの死後であるとも説明した。
本当に「ラッキー・ルチアーノの遺言」は「バラキ」を参照しているのだろうか。
マーズ氏は「バラキ」の中で、ルチアーノ氏がマフィアの絶対的な権力を握るきっかけとなった1931年のサルヴァトーレ・マランザーノ暗殺事件の共謀者の名前を誤記している。
共謀者の名前はGirolamo Santuccioだが、マース氏はSantucciと綴っていたのだ。
そして「ラッキー・ルチアーノの遺言」の中でも同じ誤表記がされている。
これについてハマーは、名前を「バラキ」の索引と照合した結果、スペルミスを拾ってしまったのではないかと言っている。
ニックネーム
間違いは、スペルミスだけではない。
例えば、「ラッキー」というニックネームは、1929年にルチアーノ氏がスタテン島に「連れて行かれて」一命を取り留めたという事件に起因すると本に書かれていることが多い。
また、「ラッキー・ルチアーノの遺言」の中では、ルチアーノがこのニックネームの由来を繰り返し語っている。
しかし、1929年10月18日の『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された記事では、前日の夜にルチアーノがひどい暴行を受け、刺されながらも「チャールズ(ラッキー)・ルチアーノ…」で始まっていることから、事件以前からラッキーというニックネームが一般的に使われていたことがわかる。
これについてハマーは、ルチアーノは自分にまつわる伝説を信じるようになっていたのではないかと語っている。
ルチアーノの本に書かれているスタテン島への乗り込みのはエピソードは、1971年に出版されたハンク・メシック氏の「ランスキー」という本に初めて登場した。
メシック氏は、出版社から送られてきたルチアーノ本を読み、「その中に私の本のいくつかの情報が含まれている」ことを発見し、他の資料の出所も認識したという。
彼は言った。「ラッキーが言ったとは思えないようなことが、ラッキーの口から語られている」と。
ルチアーノの弁護士コメント
メシックは、ルチアーノ氏が言ったはずのないことの例として、コビントン近郊のカジノ「ビバリー・クラブ」のオープンについての記述を挙げた。
本の中で、ルチアーノは仲間のマイヤー・ランスキーやフランク・コステロと一緒にオープニングに参加したと言っている。
しかし、メシックによれば、カジノがオープンしたのは、ルチアーノ氏が前年に強制売春の罪で有罪判決を受け、刑務所に入っていた1937年のことだった。
さらにルチアーノ氏の主任弁護士であるモーゼ・ポラコフは、同氏が直接関与した出来事を記述した65ページの本の部分を読み、”5パーセントも現実と似ていない “と述べた。
また、この本では、後に警察長官となるフランシス・W・H・アダムス氏が1936年の裁判でルチアーノ氏の弁護に参加したと書かれているが、アダムス氏は控訴するまでこの事件には登場しなかったという。
ハマーは「ルチアーノはアダムスが裁判に出ていたと言っていた」と言い、自分の調査ではアダムス氏が裁判の弁護士の一人であったことを示していた。
だがアダムスは、「ルチアーノには一度も会ったことがない 」と話している。
本はルチアーノが1936年に罪状認否を受けた後の会合や会話を記述していることも引用しているが、ポラコフによれば、ルチアーノは35万300ドルの保釈金を支払わず、拘置されていたので、それはあり得ないことだという。
そのことを聞かされたハマーは、「もしかしたら、夜にこっそり出てきたのかもしれない。彼は権力者であり、当時は何でも可能だったのだ」と説明した。
ちなみにマンハッタン地方検事局のスポークスマンによると、記録を確認した結果、ルチアーノは保釈されず、ブルックリンの旧レイモンド・ストリート刑務所に再拘留されていたという。
最後にもう一つ。本の中でルチアーノは1961年に、マイヤー・ランスキーが出資しているバハマのカジノが盛況だと発言しているが、そのカジノがオープンしたのは1964年1月22日で、ルチアーノの死後2年が経過していた。
果たして真相は。。
しかしながら、内容は面白いのでオススメです