ナチス対シカゴマフィア
ナチス対シカゴギャング
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シカゴのナチスハンター
アメリカ政府は、憲法修正第1条がナチスの行進や集会の権利を保護していることを理解していた。
それでもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の非公式な立場は、可能な限りナチスを不快にさせることであった。
パールマン判事はニューヨークを飛び出して、その努力に協力した。
シカゴでもナチスは活動しており、ある下宿屋の看板には「ユダヤ人と犬はお断り」と書いてあった。
そんなシカゴでパールマン判事が連絡を取ったのはシカゴマフィアの幹部 ジェイク・グージック。
グージックはユダヤ人で、アル・カポネの右腕でもあった人物。
パールマンが「ナチスを殴れる人を知っているか」と聞くとグージックは嬉しそうに「もちろん」と答えた。
数日後、ナチスが会合を開くとユダヤ人ボクサーの集団が乱入。
ナチスを血祭りにあげた。
その中には、後にリー・ハーヴェイ・オズワルドを殺した殺し屋ジャック・ルビーも含まれていた。
ロサンゼルス、デトロイト、クリーブランドでも似たような戦いが起こり、同じような結末を迎えた。
ロサンゼルスの戦いではミッキー・コーエンが先陣を切った。
また、あるバッファローの乱闘の後では、ユダヤ人ギャングが倒れた血まみれのナチに向かって、「次はこれじゃ済まないぞ」 と言ったという。
ニューアークの戦い
パールマンがニューヨークに戻る頃、マーダーインクの働きにより、ナチスはハドソン川を渡ってニューアークに追いやられていた。
そしてニューアークでも同じようなことが起こった。
ニューアークのユダヤ人ギャング代表はロンジー・ツィルマン。
彼は子供時代から、ポーランド人のいじめからユダヤ人の子供を守ることに明け暮れていたような人物だ。
対するナチスは集会を計画し、通りに“ユダヤ人の血で染めよう”と呼びかけるビラを貼ったりもした。
ロンジーはギャングのナット・アルノを隊長に使命。
アルノはユダヤ人格闘家やマフィアを集め、「反ナチス・ミニットマン・オブ・アメリカ」を結成。
反ナチス・ミニットマン・オブ・アメリカは他の地域よりも好戦的な集団で、嬉々としてナチ狩りに励んだ。
ある時はハイミー・”ザ・ウィーゼル”・クーゲルというギャングがフライパンでナチの頭を殴っている姿が目撃されている。
中にはゴールデン・グローブ・ボクシングのチャンピオン、ハリー・”ザ・ドロッパー”・レビンもいた。
彼はよく「全員を殺せないのは残念だ」とぼやいたという。
ギャング対ナチス
1939年になると、ナチスに対抗するのはユダヤ人ギャングだけではなくなっていた。
ヨーロッパからユダヤ人がゲットーに押し込められ、収容所に送られるというニュースが届き、アメリカのナチズムに対する風潮が変わっていったのだ。
ナチスが会合を開くたびに、愛国心の強いアメリカ人が何百人も集まってきて、抗議の声を上げた。
1939年2月、親ナチス集団はマディソン・スクエア・ガーデンで大規模なイベントを計画した。
それは親米イベントのはずが、実際は反ユダヤ主義を主張するための場だった。
1700人以上のニューヨーク市警官が警備に駆り出された。
だが、出席を予定していた多くのナチスどもは、その制服が仇となり瞬く間にリンチされることに。
彼らはアリーナに入る前に殴られ、そそくさと帰っていった。
こうしてマフィアや殺し屋、ギャングたちと親ナチス集団との戦いは終わりを迎えた。
後年、マイヤー・ランスキーはなぜナチスと戦ったのかと聞かれ、こう答えている。
「それは私の愛国的義務だったのだ」