禁酒法前夜のアメリカ
禁酒法前夜のアメリカ
1920年1月17日の午前12:01に禁酒法が施行された。
全米各地で「ラストコール」パーティーが行われ、多くの人が酒との別れを惜しんだ。
元野球選手のビリー・サンデーはこのように禁酒法の施行について語っている。
「地獄の扉が開かれる」
一方で喜ぶ者もいた。ケンタッキー州ルイビルの禁酒推進派はアルコールの葬式を開催したという。
各々の禁酒法
禁酒法はアルコールの製造、販売、輸送を禁止するものであり、飲酒を禁止するものではなかった。
そのため裕福な人々はスコッチ、シャンパン、バーボンの樽を買い漁り自宅に保管していた。
また、禁酒法には“聖礼典ワインを飲むことは許す”と定められており、自称ラビや牧師が激増した。
さらに科学者や製造業者は工業用アルコールを購入することが出来たので、それを利用して酒作りに励み始めた。
これらの活動はたいてい大目に見られ、重大な罪に問われることはなかったので禁酒法はたちまち名ばかりの存在となってしまった。
不意打ち
禁酒法の施行にあたり、禁酒法取締局は「日付が変わると同時に検挙するなどの厳しい対応は行わない」と宣言していた。
しかし一部の都市では施行と同時に厳しい取締を行う取締官が現れた。
取締官の不意打ちより街は大パニックに陥る。
その結果、街では強盗やハイジャックが横行し治安が激的に悪化した。
禁酒法の始まり
1月26日、シカゴ市長は家庭外で保管されている酒を捜索し、押収し始めると発表。
1月29日には禁酒法の施行以来初となる酒倉庫の摘発が行われた。
犯罪者、ギャングサイドも負けてはいなかった。
1月17日の早朝、覆面をした盗賊がウイスキーの貨車2台を強奪、加えて政府の倉庫から穀物アルコールの樽を盗み出した。
さらにシカゴでは酒を備蓄している富裕層の自宅が次々と襲撃され始める。
強奪犯は宝石や金には手をつけず酒だけを盗み出していた。
体に悪い密造酒
禁酒法は国民の健康状態にも悪影響を及ぼした。
施行以来、肝硬変の症例は減少したものの、粗悪な密造酒の飲んだ人々が相次いで死亡したのである。
1923年には321人が死亡、禁酒法の終了までに数千人が亡くなっていた。
1930年にはジャマイカジンジャーと呼ばれる酒が出回った。
ジャマイカジェイクと呼ばれるアルコール度数の高い強壮剤を仕様したドリンクで50,000〜60,000人が全身麻痺に陥った。
ジェイクには胃のむかつきを和らげる効果があり店頭販売も行われていたので、尚更タチが悪かった。
事態を重くみた米国財務省は、そのような強壮剤の製造業者に苦味剤で味を変えることを要求。
しかしハリー・グロスとマックス・ライスマンという密造業者は味に影響を与えることなく政府のテストに合格できる同成分の強壮剤を開発した。
この新たな強壮剤は政府の知るところで堂々と製造されていたが、脚に麻痺を引き起こす神経毒を含んでいた。
もちろん神経毒は酒を飲む人はもちろん、純粋に強壮剤を購入した者にも猛威を振るったのだった。。
このように禁酒法時代には常識では考えられないほど粗悪な酒が出回っていたのでした。