最も悲惨なボス

最も悲惨なボス

この男は「チーチ」または「チッチョ」と呼ばれブロンクスの住人達から慕われていた。

常に威厳を漂わせ、彼が歩けばチンピラ達も道を開ける。

正に古き良きマフィアのボスである。

そんなチーチはなぜ“最も悲惨なボス”と呼ばれているのだろうか。

チーチことフランク・スカリーチェは、1893年3月31日、シチリア島パレルモに生まれた。

程なくして兄弟と共にアメリカに渡りブロンクスに定住。

1919年にはアメリカ国籍を取得した。

少なくとも6人の兄弟と妹のローザがいたとFBIは記録している。

ちなみに兄弟のうちサルバトーレ、ジャコモ、ジュゼッペ、ジオバンニがマフィアのメンバーとして登録されている。

フランク・スカリーチェの生い立ち

チーチことスカリーチェの生い立ちの多くは謎に包まれている。

1893年3月31日、フランク・スカリーチェはシチリア島パレルモに生まれた。

FBIの記録によると、家族は10代半ばの頃に、アメリカに移住。

1919年には強盗で初の逮捕を経験している。

一方、私生活ではいとこと結婚。

子供を授かったが聾唖者だったと言われている。

肉屋のマフィア

1920年、27才になったスカリーチェは犯罪組織のリーダーにまで出世していた。

表向きはブロンクスの肉屋の店主として通っていたが、裏ではマフィアのボスを勤めていたのだ。

主なメンバーは妻の義弟 デビッド・アモデオ。

また、彼の息子アンジェロとフィリップもファミリーの一員だった。

また、この頃には若手ギャングのラッキー・ルチアーノと親交を持っていたようだ。

カステランマレーゼ戦争

チーチとルチアーノ

1931年、ニューヨークを支配さしる二大勢力、マッセリアファミリーとマランツァーノファミリーの抗争が勃発した。

スカリーチェは早くからマランツァーノファミリーの指示を表明。

1930年11月に犯罪組織のボスだったルフレッド・ミネオが殺害されると、フランクはその後ファミリーのトップに躍り出ることになった。

そんな折、マランツァーノから親友だったヴィンセント・マンガーノを殺害せよとの命令を受ける。

スカリーチェはこれを拒否。

敵対勢力のメンバーチャーリー・ルチアーノと話を付け、マランツァーノ殺害を手引きする。

マランツァーノ殺害に貢献したスカリーチェ。

しかし、ボスを裏切るとは信頼できないと感じたルチアーノは、スカリーチェにボスの座を退けと命じられてしまう。

スカリーチェファミリーは解体。

後継組織としてヴィンセント・マンガーノがボスを勤めるマンガーノファミリーが誕生した。

マンガーノの失墜

アルバート・アナスタシア

1951年、ボスのマンガーノが行方不明となる。

犯人は当時アンダーボスであったアルバート・アナスタシア。

アナスタシアはマンガーノと対立しており、彼を消してボスの座を奪ったのだった。

アナスタシアはボスになるとアンダーボスにスカリーチェを指名。

スカリーチェは20年の間に、兵士から幹部、ボスへと上り詰め、幹部に転落し、再び出世したことになる。

再び運が向いてきたかに見えたスカリーチェだが、この後思わぬ不運が彼を襲う。

運命の男

ヴィンセント・J・スクイランテ

アナスタシアの何百人もの部下の中に、ヴィンセント・J・スクイランテという男がいた。

彼は期待のホープで、最近幹部へと出世したばかりだった。

1917年、スクイランテはイースト・ハーレムに生まれたが、それ以外の彼の生い立ちについてはほとんど知られていない。

2度結婚し、3人の子供を持ち、一時は歩合制の果物商として営業していたようだ。

身長は170センチ、体重122キロのジョッキー体型で、威圧的で強引な性格だった。

1950年、彼はゴミ処理業界と関わりを持ち、何の経歴も経験もないのに、なぜか大ニューヨーク市カートメン協会の理事に選ばれ、年俸は1万ドルであった。

年俸一万ドルは今の貨幣価値に換算すると50万ドル以上だ。

また、1953年に申告漏れで有罪を認めるまで、彼には犯罪歴がなかった。

さらに、チームスターズユニオン813支部と、その腐敗した悪徳支部長バーナード・アドレスタインを支配下に。

スクイランテと弟のヌンジオは、年間5千万ドル以上といわれるゴミ処理ビジネスで圧倒的な力を持つようになった。

ちなみにこちらは現在の5億ドルに相当する額である。

一方、スカリーチェは高利貸し、違法賭博、麻薬取引などで金を稼ぐしかなかった。

そしてこの麻薬取引が麻薬取締局の目に止まってしまう。

スカリーチェをターゲットにしたのは捜査官の一人、ジョー・アマート。

アマートは1946年から彼を追跡しており、1957年11月の上院公聴会では、麻薬取引について証言している。

ちなみに彼はチャーリー・ルチアーノの監視係でもあった。

当初アマートはルチアーノの麻薬取引を追っていたのだが、その過程でスカリーチェに目を付けたと言うわけである。

ラッキー

フランクは、1948年と1949年の冬にイタリアを訪れ、ルチアーノを訪ねている。

パルテノペ通りにある5つ星ホテル、エクセルシオールのテラスで、レモンの香りがする5エーカーの庭からナポリ湾をバックに写真を撮った。

写っているのは二人と当時のルチアーノの恋人である。

ルチアーノが1946年1月にアメリカの刑務所から出所し、強制送還されて以来、FBIはローマの事務所にいるエージェントを通じて、ルチアーノを注意深く観察していた。

ルチアーノはナポリに居を移したが、これまでと同じようにニューヨークのマフィアを操っているのではないかと疑っていたからだ。

ルチアーノは15万ドルで購入したVia Tasso 464の小さな集合住宅のペントハウスに住み、港の近くで “The San Francisco Bar and Grill “というレストランを経営していた。

強制送還されたにしては、妙に羽振りが良いではないか。

そして麻薬取締局が出した結論はは、”ルチアーノは国際的な麻薬取引を指導している “と言うもののだった。

そうかもしれない。

しかし、それを裏付ける証拠はほとんどない。

そこで、麻薬取締局は、時折訪ねてくるスカリーチェから証拠を引き出そうと試みたのだった。

程なくしてルチアーノはスカリーチェが麻薬取引の疑いで法廷に召喚された事を知る。

スカリーチェはボスを裏切った男で信用できない。

そのイメージを払拭できないルチアーノはアナスタシアにトラブル処理を依頼することにした。

トラブル処理

スカリーチェが裏切れば自信にも危険が及ぶ。

依頼を受けたアナスタシアは迷わずヴィンセント・スクィランテに処置を任せた。

この大事な仕事をスクィランテに任せたのは、彼がアナスタシアのゴッドサンだったからだ。

つまりアナスタシアは彼のゴッドファーザー(名付け親)である。

少なくとも二人はそのように公言していたようだ。

余談だが、1917年6月7日付のスクィランテの洗礼文書にはアナスタシアの名前はない。

とにかくアナスタシアがスクィランテを「俺の名付け子供だ」と公言するくらい可愛がっていたのは間違いない。

青果店の襲撃

1957年6月17日、フランクは青いキャデラックで島の自宅からベルモント地区に入り、クレセント通り625番地の外に駐車して、徒歩2分で弟の会社に向かった。

毎週月曜日には、このニューヨークの最北端に位置するリトル・イタリーとも呼ばれるアーサー・アベニューでキャンディーショップを営むジャコモと昼食をとっていた。

ジャコモは、アナスタシアファミリーのメンバーで、この店を犯罪活動の拠点にしていた。

フランクが住んでいるところから7キロ足らずのところだった。

彼らは187丁目の角にある「アンとトニーの店」に行き、モッツァレラチーズやローストピーマン、焼きハマグリを詰め込んだものだ。

1927年にオープンしたこのファミリーレストランは、今も料理を提供している。

乳母車を押す女性や、日向ぼっこをしながら過ごしている老人に話しかけながら、スカリーチェはよく通りを歩き回った。

それからスカリーチェはお気に入りのエンリコ・マザレーの青果店へ向かった。

スカリーチェは青果店での買い物をストレス解消法としており、その事は周知の事実であった。

1時半ごろ、フランクが青果店へ表れた。

服装は薄い茶色のスラックスに黄色のスポーツシャツだった。

スカリーチェは店の前に停車した黒っぽい旧型のセダンを気にしたが、そのまま店内に入った。

スカリーチェは少々気が緩んでいたのかもしれない。

それから彼は小太りで温厚な店主をからかいながら、フルーツを選び始めた。

彼が代金を払おうとしたとき、二人の男が店に入ってきた。

二人は濃い色のスラックスに白いシャツを着て、袖をまくり上げた、まったく同じ服装である。

サングラスもかけていた。

身長も体格もほぼ同じ。

これは目撃者を混乱させるための服装だったのだ。

スカリーチェは驚いて彼らを見る。

その瞬間、男たちはそれぞれ38口径のリボルバーを取り出し、撃ち始めた。

二人は5回撃ち、そのうちの2発はフランクの喉に、1発は右頬に穴を開け、1発は大きく外れ、最後の1発はフランクの右肩に当たって、フランクを回転させながら床に投げ捨てた。

二人は死体を跨いで、驚いている店主の横を通り、黒い車に乗り込むと、車は午後の渋滞の中に消えていった。

一瞬の出来事だった。

犯人の一人はスクィランテ。もう一人はわかっていない。

銃撃から数分後、警察のパトカーが叫びながら通りを走り、まもなく救急車が来て、さらにパトカーが続き、やがてこのブロックは警官と刑事でごった返した。

店内には、仰向けに倒れた血の滲んだ死体があり、その脇にはオレンジの木箱とホウレンソウが置かれていた。

誰かが死体の上にシートをかぶせた。

そのそばで、パトロール隊員がノートに書き込んでいる。

マフィアの裏側

1957年6月18日、ブロンクス地方検事局の捜査官がフォーダムロード近くのグランドコンコースにあるダラー貯蓄銀行の貸金庫を開けた。

この金庫はスカリーチェの妻のもだ。

その中には現金950ドル、無記名債券2000ドル、宝石類が入っていた。

シティ・アイランドの家を捜索した際には、192ドルの現金が見つかっており、遺体の財布からも72ドルが見つかった。

つまり全財産は3142ドルである。

世間の人々は元ボスの財産の少なさに愕然とした。

余談

フランクの葬儀はブロンクスで行われ、20台の車と8台の花束で盛大に送り出された。

スカリーチェの弟ジュゼッペは葬儀に参加しなかった。

彼は犯人への復讐を誓い地下に潜っていたからだ。

だが、やがてアナスタシアが手を貸してくれないとわかると姿を表した。

数週間後、ジュゼッペは再び姿を消す。

彼は二度と現れず、マフィア達は「誰かが彼を切り刻んでゴミ袋に包み、ゴミ収集車に投げ込んだ」と噂した。

彼は今も行方不明である。

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