シカゴの犯罪史

シカゴの犯罪史

1920年代に“アウトフィット”(シカゴマフィア)が誕生する以前、シカゴはどんな街だったのだろうかー。

マイケル・カシアス・マクドナルド

アル・カポネが現れるよりずっと昔。

1950年代のシカゴはアイルランド系アメリカ人の縄張りだった。

マイケル・カシアス・マクドナルドは、犯罪者達を集め、シカゴ初の犯罪組織を作った人物である。

マイケル・カシアス・マクドナルドがシカゴにやってきたのは南北戦争の直前だった。

ニューヨーク州北部からやってきた10代のマクドナルドはシカゴには誰も知り合いがいなかった。

幼なじみで共に貨物列車に飛び乗った仲間のヘンリー・マービンは途中で亡くなり葬ったばかりだった。

1850年代、シカゴはアメリカの鉄道の中心地となり、大きなアイデアを持った熱心な若者たちが集まってきていた。

シカゴのダウンタウンに小売店を開いたマーシャル・フィールドや、列車での移動を快適にした寝台車や食堂車の生みの親であり、後にリンカーン大統領の遺体をホワイトハウスからイリノイ州のスプリングフィールドまで運んだジョージ・プルマンのような若者たちである。

しかし、マクドナルドがやってきた1850年代、乗客は硬い木製のベンチに座り、煤けた窓から変わらない風景を眺めていた。

家から持ってきたお弁当を食べて退屈している乗客には「キャンディ・ブッチャー」と呼ばれる少年たちが通路を歩いてくるのを熱心に歓迎していた。

彼らは家出人や孤児たち。

小銭とシカゴまでの無料移動を引き換えに、ボロボロの服を着て、鉄道のために商品を売り歩いていたのだ。

同情した乗客は、少年たちが利益を公平に受け取っていると勘違いして質の悪い商品を買っていた。

そしてマイケル・カシアス・マクドナルドは、当時最も成功したキャンディブッチャーだった。

小柄なマクドナルドは、心優しい女性たちに本や果物を売り歩いていた。

男性客は彼の無邪気な姿に騙されてお菓子を持ち帰り、開けたときに箱が半分空になっていることに気づく。

儲けたい一心で、マクドナルドはニセのチケット販売にまでビジネスを拡大していった。

さらにマクドナルドはキャンディ1箱を買うごとに最高5ドルの賞金を保証していた。

当然、嘘である。

マクドナルドは「毎分、生まれてくるカモがいる」とよく口にしていた。

多くの少年たちは、小銭のために長時間働き、夜は汚い鉄道操車場で寝るという苦行に疲れていた。

しかし、10代後半のマクドナルドは、普通の少年とは違っていた。

彼はビジネスを拡大していった。

裕福な乗客が大金を賭けることを恐れないことから、彼はトランプを学んだ。

人間の行動をよく観察していたマクドナルドは、激しいポーカーゲームでブラフや賭けをする人々のボディランゲージを見ていた。

やがてマクドナルドは、ボロボロの服から、スーツ、磨かれた靴、葉巻という、トランプの達人のような装いに服装を変えた。

マクドナルド日中は仕事をし、夜になるとシカゴの風俗街「ザ・サンズ」でカードゲームに参加。

全米でも有数の達人達を負かしていった。

1857年にジョン・ウェントワース市長が選出されるまで、シカゴ当局は非公式にサンズを容認していた。

だがウェントワース市長は1期目の数週間のうちにサンズに宣戦布告。

警察を出動させ、文字通りサンズを破壊した。

居住者には30分の猶予が与えられ、それから家や売春宿、賭博場をなど全てが焼き払われた。

しかし、マイク・マクドナルドは落胆しなかった。

彼は賭博がシカゴの一地区にとどまらず、街全体に広がり、警察が賭博師を見つけるのが難しくなることを予測していたからだ。

実際、警察はあまりにも無能だったためウェントワース市長は警察全員を解雇したが、世論の圧力により撤回した。

アイルランド人やアイルランド系アメリカ人に対する差別があったため、マクドナルドはまっとうな仕事に応募することができない。

選挙民は移民が市の仕事に就くことを禁止する法律も制定していた。

しかし、マクドナルドの違法なビジネスは、政治家、裁判官、市の職員などの顧客を獲得していた。

これはなんとも皮肉であった。

賭博とシカゴ

マクドナルドは、シカゴで最も成功したフローティング・ファロ・ゲームを運営していた。

フローティング・ファロ・ゲームとはヨーロッパのカードゲームのことである。

凝った装飾が施されたカードテーブルに独特のカードを並べてプレイする。

ゲームの内容はそんなに重要ではない。

ディーラーがお金をくすねるための隠し場所がテーブルにあるため、プレイヤーにはほとんど勝ち目がなかったからだ。

時折、マクドナルドはディーラーに影響力のある政治家などに有利なようにゲームを調整するよう指示した。

ゲームはしばしば暴力沙汰になったが、この頃には地元の警察は怒った客を追い出しマクドナルドの部下からボーナスをもらうようになっていた。

リンカーン大統領がイリノイ州民に北軍への出征を呼びかけたとき、マクドナルドは新たなビジネスを思い付いた。

22歳のマイク・マクドナルドは、体は丈夫だったが、アイルランド旅団には入隊しなかった。

その代わりに彼は賞金首のグループを組織した。

マクドナルドに送り込まれた彼らは懸賞金と呼ばれる300ドルの契約金を受けとるとすぐに脱走した。

マクドナルドは彼らを保護する代わりに懸賞金の50%を懐に入れてた。

マクドナルドがシカゴの酔っ払い、廃人、貧乏人を入隊させるのを、政府関係者は見て見ぬふりをしていた。

南北戦争の最初の2年間、イリノイ州は北軍に13万人以上の兵士を供給し、マクドナルドはシカゴの高級ホテルにサロンとそれに隣接するギャンブル場を購入するだけの資金を蓄えた。

マクドナルドが暴力的になったのはアルコールに溺れてからだ。

ある時は、行きつけのロードハウスのオーナーである60歳の女性に殴る蹴るの暴行を加え、酒場で男を殴り、哀れな男がマクドナルドから身を守ろうとすると、警察が男を牢屋に入れた。

全米が南北戦争で苦しんでいる中、シカゴとマイク・マクドナルドは繁栄していた。

北軍との契約交渉のためにシカゴを訪れたビジネスマンたち、戦争で家を失った南部の白人たち、そしてシカゴの南側にあった収容所から逃れてきた南軍兵士たちが、マクドナルドの店に安定したギャンブラーを供給していた。

マクドナルドは、裕福な顧客を通じて、新しい工場や労働者用の住宅の需要によって地価が高騰していることを知り、不動産に多額の投資を行った。

終戦までにマクドナルドは複数のビル、4つのギャンブルクラブ、酒類販売店を所有していた。

シカゴの頂点

マクドナルドの悪評は若くて派手なタイプの女性を惹きつけた。

イザベラがマイケル・マクドナルドと出会ったのは、ジョン・ウィルクス・ブースがシェイクスピアを上演する人気劇場でコーラスラインとして踊っていたときだった。

ベルの美しさに魅せられたマクドナルドは、すぐに彼女を友人の輪に迎え入れ、結婚はしなかったものの、マクドナルド夫人として紹介した。

彼らは、最高級のレストランで食事をし、高級住宅地に住んでいた。

ベルが7年後にマクドナルドのもとを去ることになったのは、マクドナルドによる身体的虐待や、彼の常習的な飲酒のせいではなく、彼女には予期せぬ才能があったからである。

コーラスガールだったベルは信仰に目覚め、セントルイスの修道院に入り1889年に亡くなるまで過ごした。

シカゴ大火

ベルが突然シカゴを離れた数週間後、1871年のシカゴ大火により、シカゴの大部分が焼失。

マクドナルドが所有していた私物、事業、建物もすべて焼失した。

シカゴとマクドナルドは破滅した。

が、破滅は長くは続かなかった。

シカゴは退任する市長が何百人もの死者を悼み、1週間にわたって酒場を閉鎖した後、再建を始めました。

その年の暮れには、マクドナルドは24歳のバツイチで2児の母でもあるメアリー・アン・ヌーナン・グーディと結婚した。

彼女とその子供たちは、マクドナルドがベル・ジュエルと共有していた家に引っ越してきた。

火事で家を失った30万人のために新しい家を建てようと、何千人もの労働者がシカゴに押し寄せた。

何ヶ月もかけて熟練した職人たちが鉄道駅にやってくるので、マクドナルドは粗末ながらも便利な場所に賭博場を構えた。

マクドナルドは、周辺の競合する賭博場を出し抜くために、乗客が到着するとすぐに出迎えられるように、身なりの良い男性を雇う。

マクドナルドの雇った男たちは、温かい食事とカードゲームが出来る場所を耳打ちした。

マクドナルドのビジネスは、シカゴの新市長であるジョセフ・メディルの目に留まり、彼ははマクドナルド撲滅を掲げた。

メディルは州議会に働きかけて、賭博場の経営者に対する罰則を強化することに成功。

彼は労働者が近所の酒場で自由に酒を飲める1週間のうちの1日、日曜日に酒場を閉めるように強制した。

また、警察署長に賭博場への立ち入り検査を命じ、署長の対応が甘いと、メディルが所有する新聞に賭博場のリストと所在地を掲載した。

マクドナルドは、酒類販売協会や競合する新聞社の協力を得て、日曜日に酒場を閉鎖するという市長の命令に公然と反対した。

しばらくは営業を続けていたが、店主は照明を落とし、表のドアには鍵をかけ、客は裏や横のドアから入れるようにしていた。

マクドナルドは、警察署長が自分の部下が賭博場から賄賂をもらっていることを知っていたので、警察署長に暴露すると脅。

その結果、妥協案として、マクドナルドと彼の保護下にある人々は、事前に襲撃の通知を受けることになった。

また、警察官が保管していた賭博道具を、翌日には持ち主に返して貰えるようにするなど部下への配慮もなされた。

警察は店の家具を壊すこともありましたが、それはオーナーが選んだ使い古したものや壊れたものだった。

また、従業員や賭博師が逮捕されても、マクドナルドが保釈金を払ってくれた。

メディル市長はマクドナルドに圧力をかけ続けたが、ギャンブルの王は勝利した。

警察署長とその後任者は解雇された。

メディル市長は、健康上の問題で治療を受けるという名目でヨーロッパに逃亡。

マクドナルドはメディル市長の後任に自分の候補者を立てることに成功した。

新しい市長が誕生して、マクドナルドは大活躍した。

マクドナルドの要請を受けたハーベイ・コルビン市長は、日曜日のアルコール販売を禁止する法律を廃止。

マクドナルドの手腕を認めたシカゴのギャンブル界はマクドナルドの支援を求め、その結果シカゴ独自の犯罪シンジケートが誕生することとなった。

マクドナルドに口止め料を払った政治家からの報酬と、大小のギャンブラーからの寄付金でマクドナルドはアメリカで最も悪名高い賭博場を開設した。

“ザ・ストア”

1873年9月、マクドナルドの24時間営業のギャンブルデパート、通称 “ザ・ストア “が開店。

美しく細工された木製のドア、高級絨毯、きらびやかな鏡など、レンガ造りの数階建ての建物の豪華な内装が姿を現した。

1階には、最高級の輸入葉巻を扱うシガーショップと、最高級のワインを揃えたサロンが。

2階ではオーク材のギャンブルテーブルの後ろにドレスを着たスタッフが立ち、プレイヤーを迎える準備をしている。

3階のパレス・ヨーロピアン・ホテルは単なる下宿屋に過ぎず、市外からのギャンブラーを迎え入れていた。

夫の元愛人の家に住むのが嫌になったメアリーは子供たちと一緒に上の階に住み、マクドナルドは時々泊まりに来ていた。

マクドナルドは政治家や、米国上院議員のジェームズ・G・フェアにも分け前を与えた。

フェアはネバダ州から頻繁に訪れ、銀山であるコムストック・ロードの共同所有者、カリフォルニア州の鉄道会社の共同経営者として大金を受け取っていた。

マクドナルドは夫がギャンブルで家賃を使い込んだと訴える妻たちにも損失分を返金して出入り禁止にすることを約束するなど、寛大な対応もした。

慈善事業にも力を入れた。

殉職した警察官の埋葬費用として2ドルの寄付を求められたとき、彼は「これで10ドル、5人埋葬してくれ」と言い放ったという。

マクドナルドは警察官を嫌っていたにもかかわらず、何人かを雇っていた。

マクドナルドは政治集会でピストルを振り回したが警官は見て見ぬふり。

また、酔っぱらった有権者をマクドナルドは店に設置された投票所に連れて行き、その場で帰化証明書や有権者登録用紙を書かせていた。

マクドナルドも酔った勢いで、彼に不利な新聞記事を書いた記者の鼻を折った。

その男性は刑事告訴したが、裁判にはならなかった。

マクドナルドは新聞記者に暴行を加え、耳を切り落とすと脅し告訴を取り下げさせていたのだった。

また、敵対する賭博師の殺人未遂で逮捕された時には、警察官が特別な馬車で刑務所まで護送し、裁判官にマクドナルドの即時保釈を勧めた。

もちろん、彼は無罪放免となり、その夜、裁判官や市の職員、警察官を招いて宴会を開いた。

一度だけシカゴ市の警察官たちは、警察の命令を無視して「ザ・ストア」に突入したことがあった。

ある日の夕方、マクドナルドの逮捕状を持った警察官たちが店に入り、階段を上って一家の居室に入ってきた。

マクドナルドは不在だったが、マクドナルド夫人はいた。

彼女は警察官に向かって2発の銃を発射して応戦。

マクドナルドはアルフレッド・トルードという高額な弁護士を雇い、裁判官を買収してメアリーを釈放させ、警察官の違法な家宅捜査を叱責した。

メアリーは、夫と同様、シカゴの劇場で公演するマイナーな有名人と付き合うのが好きだった。

妻のジュリアとシカゴのサウスサイドに住むアフリカ系アメリカ人のバンジョー奏者、ビリー・アーリントンとはすぐに恋に落ちた。

メリーはアーリントンにプレゼントを贈り、ディナーパーティーでは堂々と夫に紹介。

ビリーがサンフランシスコでの演奏のためにシカゴを離れなければならなくなったときもメリーはついていった。

デンバーに着く頃、メアリーはマクドナルドに郵送した手紙の中で、ビリー・アーリントンへの永遠の愛を宣言していた。

マクドナルドは二人を追ってサンフランシスコに行き、弾の入ったピストルでビリーとメリーを脅した。

マクドナルドは妻の軽率な行為を許した。

そして、「ザ・ストア」から離れた場所に新居を構えることを約束。

市長をはじめとするシカゴの有力者の家が立ち並ぶ大通りに面したライムストーンの邸宅に家族を移すことでメリーを満足させた。

メアリーも忠実であることを約束し、しばらくの間、忠実であった。

夫が地元のカトリック教会に多額の寄付をしていたこともあり、彼女はジョセフ・モイサント神父と出会った。

モイサント神父が教会に住む準備をしている間、メアリーは神父に空き部屋を提供したり、マクドナルド家の広い邸宅に自分の部屋を用意したりした。

ある時は、二人でこっそりと街に出かけたこともあった。

二人はシカゴを離れるまでの2年間、人知れず密かに関係を続けた。

メアリーはベル・ジュエルと同じように修道女の服を着てシカゴを後にしたが、修道院に入るつもりはなかった。

二人は列車でニューヨークに向かい、パリ行きの船に乗り込んだ。

この時、マクドナルドは彼女を探し出すのに2ヵ月かかった。

警察官の殺人未遂事件でメアリーを弁護した弁護士アルフレッド・トルードの助言を得て、マクドナルドは離婚を申請。

妻の不倫に心を痛めた彼は、友人に「妻も神父も信じられないとなると、誰を信じればいいのか」と嘆いた。

賭博場の経営、保護費の徴収、警察への賄賂の分配などに忙殺されながらも、マクドナルドは誠実な事業とそうでない事業を行っていた。

メディル前市長の新聞「シカゴ・トリビューン」のライバルである「シカゴ・グローブ」紙を買収した。

また、何百万人もの来場者を迎えるコロンブス万国博覧会の際には、シカゴの評判を落とさないように、スリに近づくなと命じたという。

ホワイトハウスでの個人的な会合では、チェスター・アーサー大統領を説得して、ネズミ講で有罪となった同僚の恩赦を与えている。

さらにさらにシカゴ初の高架鉄道の建設に資金を提供。

競馬場も運営、石灰石を市の建設業者に高値で販売する採石場にも投資。

ある時には市庁舎に特殊な液体を塗る作業員を雇い、壊れかけの建物を防水・防火にすることを保証し、3万ドルと見積もられた作業に対して18万ドルをシカゴ市に請求した。

実際には、その液体は石灰、鉛、亜麻仁油を混ぜただけの無価値なものだったのだが。

マクドナルドの晩年

56歳の時、マクドナルドは21歳のユダヤ人女優ドーラ・フェルドマンと結婚した。

彼女はマクドナルドの息子と学校で一緒に遊んだことがあるという。

ドーラはマクドナルドと同じように離婚しており、新妻は前妻と同じように芸術家タイプに惹かれていた。

マクドナルドがドーラのために購入した家で豪華なディナーパーティーを開いたり、劇場やオペラの後に高級レストランで夜遅くまで食事をしたりと、幸せな時間を過ごしていた。

しかしマクドナルドは年を取り老いた。

色々な意味で。

マクドナルドが午後に昼寝をしている間、ドーラはこっそりと10代の恋人、ウェブスター・ゲリンに会いに行っていた。

ゲリンは絵を売っているが生活が成り立たない。

そこでドーラはゲリンを下町の額縁屋に連れて行き額縁をプレゼントしていた。

マクドナルドは妻の浮気を疑っていなかった。

ユダヤ教に改宗してまで妻を愛し続け、妻のお金の使い方も疑わなかった。

ドーラはウェブスター・ゲリンが他の女性と付き合っているのではないかと疑うと激怒、その女性を殺すと脅した。

2月の寒い朝、ドーラは恋人のオフィスに押し入り、目撃者の目の前で彼を射殺。

警察には恋人を殺したことを認めたが、夫には「男が自分を脅迫していたから殺した」と話した。

マクドナルドは、自分の最初の妻を殺人未遂の罪で弁護したアルフレッド・トルードを中心とした著名な弁護士団に弁護料を支払った。

このスキャンダルはマクドナルドの心身に大きなダメージを与えた。

マクドナルドは妻の無罪判決を見届けられなかった。

マクドナルドは元妻のメアリーをそばに置き、200万ドルの資産を抱えて亡くなった。

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