ラスベガスの大物が死去
ラスベガスの大物が死去
アレン・グリックは1970年代にラスベガスのカジノ、それもマフィアが経営に関わるカジノを4つも所有していた人物。
内訳はスターダスト、フリーモント、アシエンダ、マリーナ。
その活躍は映画「カジノ」でも描かれている。
グリックがマフィアの為にカジノから横流しした金額は約700万ドル。
果たしてグリックとは何者なのか!?
グリックの生い立ち
アレン・グリックはピッツバーグで生まれ育ち、オハイオ州立大学とケースウエスタンリザーブスクールを卒業。
1967年には米軍に入隊し、ベトナム戦争で憲兵中尉を務めた。
グリックは優秀な軍人で勲章も貰っている。
1969年、陸軍を除隊したグリックはサンディエゴで郊外の住宅建設会社に就職。
1972年、グリックはサラトガからの230万ドルの融資を受け、ラスベガスのハシエンダホテルカジノの株式の半数を取得。
加えてネバダ州のカジノライセンスを取得した。
その翌年、グリックはチームスターズのジミー・ホッファの友人 アルビン・バロンと、マイヤー・ランスキーの部下 エド・ブッチエリと知り合った。
三人はタホ湖のキングスキャッスルカジノを買収しようと目論んだが失敗。
しかし、このコネは後に強力な武器となる。
ラスベガス進出
1974年、グリックはラスベガスのスターダストホテルカジノを買収しようよした。
ミルウォーキーとカンザスシティのマフィアはグリックにカジノを購入させるかについて話し合いを行った。
その結果、グリックは正式にスターダストのオーナーとなる。
マフィアはグリックを“フロントマン”に最適と判断し、次々と格安でカジノを購入出来るようお膳立てを行った。
こうしてグリックはラスベガスの大物として有名になってゆくのだが、裏ではマフィアの鵜飼いに過ぎなかった。
グリックはカンザスシティマフィアのボス ニック・シヴェラの仲介でチームスターズから6,275万ドルもの融資を受けることに成功。
加えてシヴェラの紹介で投資家 タマラ・ランドからも200万ドルの融資を受けた。
ランドは間もなく何者かに殺害され、借金は帳消しになりました。
1974年の秋現在、グリックはフランク・ローゼンタールがスターダスト、フリーモント、ハシエンダのエグゼクティブコンサルタントを務めると発表した。
フランク・ローゼンタールとは映画「カジノ」でロバートデ・ニーロが演じた人物である。
1975年5月、グリックは4番目のカジノマリーナをオープンした。
さらにグリックはローゼンタールの“スポーツ賭博を出来るようにする”というアイデアを採用したことで、ラスベガスのギャンブルに革命をもたらす。
こうしてグリックは億万長者の仲間入りを果たしたのだが。。
マフィアとグリック
1978年6月、FBIはフランク・ローゼンタールがシカゴマフィアのボス ジョセフ・アイウッパから派遣された犯罪者で、グリックの4つのカジノすべてから収益を巻き上げている事を突き止め、83人分の捜索令状を持った50人の捜査官をラスベガスに送り込んだ。
グリックを始めとするカジノ関係者とマフィア達は次々と逮捕され、取り調べを受けることに。
グリックは一貫して「自分にはなんの権限もなく、マフィアへの金の流れは知らなかった」と主張。
もちろんFBIはこの主張を信じなかった。
情報提供者
1978年、厳しい捜査に屈したグリックはFBIの情報提供者となりラスベガスに戻った。
グリックは初仕事としてローゼンタールを解雇。
怒ったマフィアから「お前の息子が死ぬぞ」と脅されたグリックはラスベガスのカジノを全て売却しサンディエゴに移住。
1979年にカジノライセンスを剥奪され、
その後は報復に怯えながら生活した。
映画「カジノ」の原作本を執筆したニコラス・ピレッジはグリックについてこう話している。
「アレン・グリックは、それが悪夢だとは知らずにこの悪夢に足を踏み入れました。
グリックは自分がどれほどの問題を抱えているかを知ったとき、どうしたらいいかわからなかったんだ。
マフィアに協力するのもFBIに協力するのも危険だからね。
ゆっくりと沸騰している鍋の中のカエルのようなものだ。
最終的にグリックは彼が信頼できる連邦捜査官を見つけ証人になった。
これはマフィアのラスベガス支配を終わらせる鍵となった」
1986年、ピレッジが言うとおりフランク・バリストリエリ、ジョセフ・アイウッパなどの有力マフィアが一斉に逮捕されている。
最期は2021年8月2日、グリックはガンにより他界。79歳だった。