禁酒法の終わり
新ビール時代
1933年4月6日の夜、バーや醸造所の外には行列ができていた。
13年ぶりに解禁されるビールを求める人で街はお祭り騒ぎ、ラジオ局もこぞってその模様を中継した。
この数週間前、大恐慌を打破すべくフランクリンD.ルーズベルト大統領はカレンハリソン法に署名し1920年に禁酒法が施行されて以来ビールの合法化を認めた。
ルーズベルト大統領はビール解禁についてこう話している。
「ビールやその他のアルコール飲料の製造と販売を合法化するために、ボルステッド法(禁酒法)の即時改正に関する法案の可決を議会に推奨します。
アルコールの製造と販売を通じて政府はかなりの税金を得ることができる」
議会は迅速に動きニューヨークのトーマス・H・カレン議員が下院に立法を提案し、ミシシッピ州の上院議員パット・ハリスンが上院に立法を提案した。
改正案は3.2パーセント以下のアルコールを含むビールの販売、製造、流通の即時の合法化を容認するもので通称“カレン・ハリソン法”と呼ばれている。
ビールへの道のり
カレン・ハリソン法が全米で効力を発揮するには州単位での立法も必要だった。
19の州が直ぐ様可決し、6つの州はビールを合法化したが開始日を遅らせるという措置を取った。
ワシントンDCではビール解禁を祝う人々が大騒ぎし、ちょっとしたお祭り騒ぎが勃発。
その裏では禁酒法取締官が最後の仕事に向け準備を始めていた。
禁酒法取締官は全国の主要都市で4月7日の解禁前にビールを飲んだ人々を捕まえて回ったのだ。
一方、リノでは供給が限られていたため合法的な販売にも関わらずビールの価格は相場の10倍にまで羽上がっていた。
違法なスピークイージーよりも高い金額でビールが飛ぶように売れたのだからギャングも驚きである。
醸造所
醸造所は禁酒法の期間中閉鎖された状態にあり禁酒法解禁に合わせて急遽ビール製造を開始した。
ニューヨーク市には1919年の時点で70の醸造所があったが1933年には23にまで減少しており、残っていた醸造所もなんらかの代替え品を製造していた。
例えばペンシルバニア醸造所はアイスクリームを、クアーズ醸造所は麦芽シロップと磁器の製造、アンハイザーブッシュは冷凍卵とソフトドリンクを、などとという状況ですぐにはビール作りを行える状態ではなかった。
唯一禁酒法解禁に間に合わせてビールを製造出来たのはニアビールを作っていた醸造所である。
ニアビールはノンアルコールビールのようなもので本物のビールとほぼ同じ方法で作られる。
唯一の違いは、瓶詰めと熟成の前にアルコールが除去されるように加熱または真空蒸留されることだ。
ニアビールは一般的に低品質の原料で作られ通常のビールほど熟成されていなかったが間に合わせには充分。
いくつかのの醸造所はすでに生産されているニアビールのアルコールを取り除く最後のステップを排除し禁酒法解禁に備えた。
またそれらの醸造所は解禁に向けボトラー、トラック運転手、配達員などの新しい従業員を一気に雇った。
レストラン、ホテル、食料品店もビジネスの増加を予測し人員を増やした。
こうして雇用が産まれたのである。
一方マフィア
禁酒法解禁を喜ばなかった唯一の人物はマフィアである。
ニューヨーカーの4月15日の記事で匿名のギャングはこう話している。
「スピークイージーは消える。
それらのほとんどは破産するだろう」
マフィアやギャングによる密造酒ビジネスは禁止法末期に激減し、1933年5月の禁酒法違反事件は前年の7分の1にまで減少していた。
そして事件が減少するにつれて税収は増加していった。
職を失ったギャング達は酒を合法的に販売し脱税を行い始め、有力マフィア達はギャンブル業界へと戦場を移してゆくのだったー。