伝説の記者

伝説的なフリーランス記者 アーサー・フェリグ

通称ヴィージーと呼ばれた彼はニューヨークの犯罪模様を克明に伝えた最初の記者として、今も尊敬を集めている。

ヴィージーの歴史

ヴィージーは1899年に、現在のウクライナに誕生。
10歳の時に家族と共にでアメリカに移住し、新聞社で働き始めた。

やがてヴィージーはニューヨークの犯罪現場を撮影する仕事をはじめる。

ウィージーが撮影する写真は生々しくダーティで多く人に衝撃を与えた。

ヴィージーの住まい

1930年代半ばから1947年まで、ウィージーは警察本部の向かいにあるロウアーマンハッタンの警察用品店の上の長屋にある小さな居住空間で生活していた。

この住まいのメリットは2つ。

一つ目は警官と親しくなれること。

小屋の下階にある騒々しい酒屋は、記者と警官が一緒にビールを飲み、情報を交換する場所として知られていた。

酒屋と警察署には秘密のトンネルがあり、勤務中の警官もビールを楽しんでいたという。

二つ目は警察の動きを常に把握できること。

これで大事件の現場に誰よりも早く駆けつけることが可能になった。

この居住空間は他にも多くの著名人を排出した事で知られている。

「グッドフェローズ」で知られるニコラス・ピレッジもここで執筆作業をしていたという。

ヴィージーはこの場所を「ここが私が知っていた街の神経の中心地でした」と語っている。

事件現場にて

ウィージーは24時間アンテナを張り、事件があれば誰よりも早く駆けつけたという。

この写真は1936年8月6日、ドミニク・ディダートというギャングがリトルイタリーのレストランの外で殺害された際のもの。

彼はラッキー・ルチアーノを裏切り殺害されたと言われている。

ウィージーの秘密兵器

ウィージーが誰よりも早く現場に駆けつけられのは努力によるものだけではなかった。

ウィージーは初めて警察無線の傍受を許可された一般人だった。

年間25ドルの費用がかかったが、その元は用意に取ることができた。

加えてウィージーはギャング達ともコネを作る為に、葉巻などの贈り物を欠かさなかったという。

「私は彼ら全員友人であり、自信を持ってそう言えます」とウィージーは話していた。

この友人の中にはあの大物マフィアもいた。

ウィージーはある時、警察署で勾留され神経質になっているダッチ・シュルツに遭遇する。

ウィージーはシュルツに2錠のアスピリンとタバコをプレゼントし、それ以来友人になった。

そんな交遊関係が影響し、ウィージーには「マーダー・インク公式写真家」との異名までつくようになっていた。

その後のウィージー

次第にウィージーは“写真家”として名声を高めてゆく。

ウィージーは自宅をニューヨークからハリヴッドに移し芸術家としての活動に専念し始めた。

1960年代半ば、ウィージーは再びニューヨークへと舞い戻り記者としての活動を再開。

しかし歳には勝てず、全盛期はとうに過ぎていると思い知らされた。

挫折から数年後の1968年、ウィージーは脳腫瘍で死亡した。

彼の撮影した写真は現在も貴重な資料として大切に保管されている。

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