バグジー・シーゲルpart3

バグジー・シーゲルpart3

マフィアグッズ専門店

ハリウッドからラスベガスへ

1942年、刑務所から出たバグジーは、ハリウッドの人々の反応が変わったことに気がついた。

裁判の間、新聞はバグジーの過去を明らかにし、彼を「バグジー」と呼んだ。

バグジーはこのニックネームを嫌っており“シーゲル”と呼ばれたがったが、ハリウッドの人々は“バグジー”と呼び、彼を恐れた。

1944年5月25日、バグジーは違法ギャンブルの罪で逮捕。

1944年末頃、友人ジョージ・ラフトの証言により、再び無罪となった。

1945年、バグジーはネバダ南部の街、ラスベガスを訪れた際に、あることを閃いた。

“この街はギャンブルに最適だ”

まず、ラスベガスではギャンブルが合法だった。

さらに、辺りは砂漠のみで、土地も無限にある。

しかし、当時のラスベガスはダムを建設している作業員に対して、少額のギャンブルを提供しているのみだった。

“ここを華やかなギャンブルタウンに開拓すれば。。”

そう考えたバグジーはランスキーを説得。

二人は違法なギャンブルビジネスで蓄えた資金で、ラスベガスにある古びたカジノを買収した。

ホテル名はバグジーの愛人 ヴァージニア・ヒルのあだ名にちなんでフラミンゴとした。

ラスベガスの発展

当時のラスベガス

バグジーは散財を始めた。

当時は第二次世界大戦直後で、物資が不足していた時代。

にも関わらずバグジーは最高級の建材を買い集めた。

加えてプール付きの中庭、エアコンの導入。

そのうえ、デザインが気に入らなければ何度でも、設計を変更させた。

湯水のように消えて行く資金はバグジーのものでなかった。

バグジーはルチアーノなど、マフィアのボスたちに頼み込み100万ドルを出資てもらっていたのだ。

ところがバグジーは最高のホテルを作るという目標に捕らわれ、この事を忘れてしまっていた。

1946年10月までに、フラミンゴの建築費用は400万ドルを突破。

当然、出資したボスたちは激怒する。

ランスキーの説得で渋々、追加の出資をしたものの、その内ではある疑惑が膨らんでいた。。

カジノの正攻法

友人でありギャンブルビジネスのプロ ランスキーはフラミンゴ運営について以下のアドバイスをしている。

1.カジノには客が時間を忘れるように時計と窓は作らない

2.客室は居心地を悪くし、カジノに足を運ぶよう仕向ける

3.家族でもこられるようにドレスコードを廃止する

それからもうひとつ、理想のカジノについても語った。

「良いカジノは妻を怒らせない」

つまり、客の家族が退屈しないようにレストランをショーを充実させろと言うわけである。

マフィアはマフィアしか殺さない

フラミンゴが完成間近となったある日、バグジーは仲間に殺しの仕事を自慢していた。

そこで、ふと気がつくと請負人長のデル・ウェッブが聞き耳を立て青い顔をしていた。

そこでバグジーはこう声をかけた、

「デル、心配するな。俺たちは俺たちで殺し合うだけだ」

バグジーについてはこんな証言もある。

「彼はデイモン・ラニヨン癌基金へ寄付をしていた」

バグジーの弁護士、ルー・ワイナージュニアも「非常に好かれていた。人々に親切だった」と述べている。

フラミンゴオープン

1946年12月26日、フラミンゴは遂にオープン。

だが、建築は間に合わず、カジノ、ラウンジ、劇場、レストランしか完成していなかった。

バグジーはオープニングセレモニーを催し、友人のハリウッドスターたちを招待した。

ロサンゼルスからはジョージ・ラフト、ジューン・ヘイバー、ビビアン・ブレイン、ソニー・タフツ、ブライアン・ドンレヴィー、チャールズ・コバーンなど大スターが集結。

しかし、嵐に見舞われ飛行機が欠航。

多くの一般客が来場を諦めることとなってしまった。

さらに、僅かな一般客を迎えたのはお粗末なカジノだった。

フロアには工事の騒音が響き、エアコンは故障中。

ギャンブル台は稼動していたが、ホテルが完成していなかったため、夜が更けると客たちは宿泊先に戻ってギャンブルをし始めた。

特にホテルがないことは大きな痛手だった。

客たちを早い段階で勝ち逃げさせてしまったからだ。

その後2週間でフラミンゴは27万5千ドルの赤字を出し、休業を余儀なくされた、

死刑宣告

1946年12月26日、フラミンゴが赤字を出していた頃、全米のマフィアのボスなちはハバナに集まっていた。

議題はバグジーの横領疑惑について。

あまりに建設資金をかけすぎるバグジーをみて、ボスたちは横領しているに違いないと踏んだのだ。

唯一、ランスキーは必死にボスたちを説得した。

その様子をドク・スタチャーはこう話している。

「あんなランスキーを見たのは初めてだった。やつはボスたちにバグジーを殺さないでくれの泣きついたんだ」

だがボスたちの意見は変わらなかった。

多数決がとられ、ランスキー以外の全員がバグジーを始末する方に手を上げた。

そうとも知らずバグジーは、フラミンゴの改築を再開。

宣伝にも力を入れ、ハンク・グリーンスパンを広報担当として雇った。

1947年3月、フラミンゴを再オープン。

フラミンゴはバグジーの思惑通り、少しづつ利益をだし始める。

その一方で、1947年には建設資金は600万ドル、現在の6200万ドルにまで膨れ上がっていた。

その頃、バグジーを訪ねたマフィアのジミー・フラチアーノはこう振り返っている。

「バグジーは自慢げに言った。
『見てみな、フラミンゴは俺の作品なんだ。
この世で一番美しい芸術品さ。
ロスからラスベガスは車でちょっとだし、今にラスベガスは世界的な観光地になるぞ。
しかもカジノは合法だ。俺とビジネスをすれば成功は間違いなしだ!
しかもな、俺は賭博委員会も押さえてる。
許可を出すのも却下するのも俺次第さ』

これほどまでに大きなビジネスに関与したことのなかったので驚嘆した

バグジーは続けた。

『俺はな、ラスベガスに組織を作ろうと思ってる。 俺の組織さ。
お前らがこの話しにのるなら一人に一つカジノを持たせてやるよ』」

暗殺依頼

その夜、バグジーの発言をドラグナに報告したフラチアーノはこう言われた。

「問題はな、奴はヤクをやってる上にペテン師ってことだ。
儲かるというが今のところカジノは赤字だし、そのくせ贅沢三昧だ。
チップを大盤振る舞いだし、女へのプレゼントも欠かさない。

肝心なのはな、奴が重要人物達の金をくすねてるってことだ。

残念さ、だが仕方ねえ。

奴は頭がいいのに肝心な事を忘れてんだ。
“人の金を誤魔化すってのは一番殺られやすいんだ”」

さらにドラグナはだめ押しにこう付け加えた。

「ここだけの話だがな、近々運転手が必要になる」

これはバグジーを殺すから、運転手を勤めろという意味であった。

撃ち抜かれた左目

1947年6月20日の夜、バグジーは友人のアレン・スマイリーと一緒にビバリーヒルズのヴァージニア邸で夕食を共にしていた。

食事が終わり、ソファーでロサンゼルスタイムズを読んでいるところを、窓から何者かが30口径の軍用M1カービンで狙撃した。

発車された9発中、2発が頭部に命中。

一発は完全に左目を吹き飛ばしていた。

警察はフランキー・カーボやマイヤー・ランスキー、ラッキー・ルチアーノ等を取り調べたが証拠は何も見つからなかった。

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ちょくちょく登場するフランキーですが、実はグッドフェローズのカーボンのモデルなんです。

翌日、ロサンゼルス・ヘラルド・エクスプレスは、死体安置所からのシーゲルのつま先タグの付いた裸の右足の写真を一面に掲載。

この事件をきっかけに全米から“マフィアのカジノ”を見学しに観光客が集まり始めた。

バグジーは自分の命と引き換えに、ラスベガスを世界的な観光地にしたのである。

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